Up 数学風言説の空虚と不毛 作成: 2016-01-08
更新: 2016-01-08


    哲学の言説は,これを読む者にとって,空虚である。
    そして,不毛である。

    読者は,言説に意味を読もうとする。
    即ち,《言説には意味がある》を無意識に前提する。そして,言説に対する。
    一方,言説は意味を欠く。
    かくして,言説は読者にとって空虚・不毛である。


    空虚・不毛な言説と対峙する読者は,空虚・不毛を「難解」に取り違える。
    言説を難解とする自分を頭の悪い者に定め,言説を読めないことを自分のせいにする。

    <空虚・不毛な言説をつくる>と<言説の空虚・不毛を「難解」に取り違える>は,永久循環する。
    この循環は,商品経済では経済効果になる。
    すなわち,「出版」の生業が立つ。

    こうして,「哲学」は,つぎの3種類の生き物が現す生態系である:
    • 空虚・不毛な言説をつくる者
    • 言説の空虚・不毛を「難解」に取り違える者
    • 言説の出版を生業う者


    数学風言説をつくる者は,哲学の言説をつくる者と同種である。
    空虚・不毛な言説をつくる者である。

    空虚・不毛な言説をつくる者は,2種類に分けられる:
    1. 卑近を念頭に,これの形式論・一般論として言説をつくっている。
      しかし,「言説の意味としてその卑近を論述しなければ,言説は読者にとって空虚・不毛」の考えがない。
    2. 「意味」の考えを,端から欠く。

    数学風言説をつくる者は,特に b の傾向が顕著になる。
    実際,「数学に慣れる」とはこういうことである。
    数学は,それ自体で閉じたゲームになる。
    数学者は,ゲームオタクを現す。


    「意味」を欠く形式論をつくってしまうのは,これが容易いからである。
    形式論に「例えば○○の場合,‥‥」(卑近への言及) を伴わせることは,ほんとうに力量のある者ができることである。

    読めない言説をつくるのは,簡単である。
    読める言説をつくるのは,力量が要る。
    自戒すべし。