Up | 表象主義への落とし穴 | 作成: 2016-01-07 更新: 2016-01-07 |
世界認識・世界構築の営みでは,ことばの補足として数学が用いられることがある。 この数学の使用も,「便宜的使用」と割切るものである。 「うまくいっている限りで用いる」が,数学を使用するときのスタンスである。 形式は,対象に存在するのではない。 対象を認識する側に存在する。 形式は恣意・任意である。 しかし,世界認識・世界構築に数学を用いる者は,《形式は恣意・任意》から逸脱しがちである。 「経験A」「行動B」のような言い方は,「うまくいっている限りで用いる」ならよいが,だんだんとリアルとのマッピングの趣きになっていく。 こうなるのは,もともと,表象主義をやることが数学/ことばの機能だからである。 数学/ことばは,道具・機械である。 数学/ことばの体系は,道具・機械の体系である。 世界認識・世界構築に数学を用いるとき,その数学は世界認識・世界構築の道具・機械である。 道具・機械は,もとよりリアルとのマッピングになるものではない。 数学/ことばの体系は,世界の体系の写しではない。 さらに,リアルは,そもそも「マッピング」の概念が立つものではない。 「マッピング」を考えるとき,リアルは何かひとまとまりのものとして考えられている。 しかし,リアルはひとまとまりのものではない。 一方,ことば (概念) を世界の写しと見なす立場がある。 これが表象主義であり,西欧の学はこれを伝統にしている。 数学は,箸や金槌と同じである。 箸や金槌は,世界の写しではない。 世界の写しとしてつくられているのではない。 世界の写しとして使われているのではない。 特に,数学道は,<世界認識・世界構築>道ではない。 <世界認識・世界構築の道具・機械>道である。 道具・機械づくり/道具・機械使いの腕を磨く道である。 「数学ができるようになる」は,「道具・機械づくり/道具・機械使いができるようになる」である。 |