Up <教師>の不在 作成: 2016-02-11
更新: 2016-02-14


    生物一般の<教える>は,教師のいない<教える>である。
    翻って,「数学を教える」の場合の「教師」という存在を,改めて考えてみる。

    教室の中で,生徒は教師が思うようには学んでいない。
    「教師が教えることを学ぶ」の表現は,生徒の上に実際に起こっていることと,合わない。
    生徒について言えることは,「探索している」である。

    <教える>は,「授業」「教室」がこれの現象である。
    現象から溯行される存在は,位相として,「系」である。
    <教える>は,系である。

    教師は,この系の要素の一つである。
    生徒は,系を探索する。
    これを「学ぶ」と称している。

    教師は,生徒の探索の契機の一つである。
    「数学を教える」では,教師という契機が目立つ。
    「背中で教える」では,教師という契機がはっきりしなくなる。
    「何事も勉強」では,教師という契機が無くなる。
    「授業崩壊」は,教師という契機が有りかつ無いである。

    このグラデーションを,本論考は「教師の不在」と捉える。
    「教師」を立てるのは,ことばのロジックである。
    存在のロジックでは,「教師」は立たない。

    <教える>は,「教える」でなくてよいものである。
    <教える>は,「教える」である必要はない。
    特に,<教える>は,<教えているつもり>を要しない。
    「他山の石」も,<教える>である。

     註 : <教える>の本質を考えるためには,<教える>のよい事例──汎用的な事例──をもつことが重要になる。
    つぎは,よい事例である:
       鳥の子は,親のさえずりを学ぶ
       ──この意味で,鳥の親は子にさえずりを<教える>