「教える」は,相手のカラダへの作用である。
相手のカラダの工作ではない。
カラダを工作するのは,あくまでもカラダ自身である(註)。
そのカラダは,「自分自身を変えるカラダ」である。
教授の経験を積んでいると,つぎのことがわかってくる:
《カラダにこんな作用をすると,
カラダはこんなふうに自分自身を変える》
これが「教授法」である。
註 : |
教員は,自分の拙い授業を合理化する言い草として,よく「教え込みはだめ」を用いる。
「教え込みをしようと思えばできるが,自分はそんなことはしない」というわけである。
「教え込み」の発想は,「相手のカラダの工作」の発想である。
「教え込みはだめ」を言う者は,「教え込み」があると思っている者であり,したがって「教える」をカラダの工作のように考えている者である。
「教える」は,相手のカラダの工作ではない。
教え込みなど,もともとできることではない。
「教え込みはだめ」の言い草に対しては,「教え込みができるものなら,こんな目出度いことはない!」の皮肉を返してやるくらいが丁度よい。
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