Up 要約 作成: 2015-12-22
更新: 2015-12-22


    「数学教育」「数学教育学」を生業う者は,時に,漠然とつぎの想いをもつ:
      《 数学教育・数学教育学は,本来,現前の「数学教育」「数学教育学」とはもっと違うものである》
    そしてこのとき,「数学教育」「数学教育学」とはつぎのように折り合いをつける:
      《 現前の「数学教育」「数学教育学」は,現実条件からこうなっている
    ──「数学教育」「数学教育学」は,数学教育・数学教育学の現実である》

    ある者はさらに,この漠然とした想いをはっきりさせたいと思う。
    つぎの問題をたて,これの探求に向かう:
      《数学教育・数学教育学とは,本来どういうものか?》
      《「数学教育」「数学教育学」は,どうしてこのようなのか?》

    本論考は,現前の「数学教育学」の営みに,この「探求」を対置する。
    そしてこれを,科学としての数学教育学と定める。
    「科学」とする理由は?
    これが,《現前を理の実現と定め,その理を探求する》になっているからである。 ──科学とは,《現前を理の実現と定め,その理を探求する》である。


    《「数学教育」「数学教育学」は,どうしてこのようなのか?》の探求では,「数学教育」「数学教育学」に生態系を見るようになる。
    《現前の「数学教育」「数学教育学」は,現実条件からこうなっている》の「現実条件」は,「生態系のダイナミクス」である。

    「数学教育」「数学教育学」を生態系と捉えることは,「数学教育」「数学教育学」に棲む者のやってはならないことである。
    生業を具合悪くするからである。
    こうして,探求は,(視座は「数学教育」「数学教育学」に生態系を見る時点で既に「数学教育」「数学教育学」の<外>にあるが) 論考を「数学教育」「数学教育学」の<外>で著すことになる。


    《数学教育・数学教育学とは,本来どういうものか?》の探求では,Transzendental タイプの論考をつくることになる。
    実際,現実であり相対的である「数学教育」「数学教育学」を眼下に収める視座で数学教育・数学教育学の本来を語る位相は,まさしく Transzendental である。

      《数学教育・数学教育学とは,本来どういうものか?》の数学教育・数学教育学は,現実のものではない。
      現実のものでないとは,幻想だということである。
      《数学教育・数学教育学とは,本来どういうものか?》の問いは,イデア論とも通ずる。

    科学としての数学教育学が Transzendental を含むのは,いかがなものか?
    しかし,生態学をやるとは,つけとして Transzendental を負うということである。
    生態学はTranszendental を含蓄する。

      現実は,ほかの現実と相対的である。 生態学は,相対主義を立場にする。
      一般に,相対主義は,<普遍>を負う。 「何として相対的」の「何」は身分が<普遍>になるからである。
      こうして,相対主義は Transzendental を含蓄する。 特に,生態学は Transzendental を含蓄する。