Up はじめに 作成: 2015-12-27
更新: 2015-12-27


    論考で「動機」が長々と述べられるのは,ふつうは見ないことである。
    この『2. 数学教育学の動機』は,「動機」を長々と述べる。

    長々と述べる理由は,第一に,『数学教育学とは何か?』は「動機」でほとんどすべてだということ。

    「動機」を長々と述べるのにはもう一つ理由があって,それは,本論考が数学教育学専攻に籍をおく大学院生を特段読者に想定しているということ。
    彼らに「論考とは何か?」を伝えるために,「動機」を長々と述べて,つぎを示そうとする:
      「「動機とは何か?」がわかることが,「論考とは何か?」がわかること」


    本論考は「動機」でほとんどすべて,と言った。
    しかしこれは,一般的に言えることである。
    論考は,「動機」がほとんどすべてである。
    「動機」が醸成されたところで,その先の論考はほぼ決定されている。

    翻って,論考が進まないのは,その論考が「動機」の無い論考だということである。

    大学院生は,研究テーマを持たされる。
    つぎに,《自分はテーマをもっている》と思うようになる。
    《自分はテーマをもっている》は,《本当はテーマを持っていない》の隠蔽に機能するので,警戒を要する。
    実際,論考が進まない学生は,本当はテーマを持っていないのである。

    テーマを持つことは,簡単ではない。
    そもそも,テーマは,持つものではなく,持ってしまうものである。
    学生が「テーマを持つ」の方から入ってくのは,彼らの立場がそういうものだからである。
    学生は,論文をつくらねばならない,したがってテーマを持たねばならない,ということである。

    テーマは,持つものではなく,持ってしまうものである。
    「数学教育」「数学教育学」を生業にしていると,テーマをいやでも持ってしまう。
    そのテーマは,《これを解決しないと,生業が落ち着かない,生業をやっている自分のアイデンティティが落ち着かない》となるところのテーマである。