Up 「数学教育学」は,「数学教育」の攪乱を生業う 作成: 2015-11-28
更新: 2015-11-28


    「数学教育」は,人材をアウトプットにする営みとして立つが,人材のどこをどう自分がつくっているのかつくっていないのか,わからない。
    「数学教育」は,アウトプットを持てない。

    「数学教育学」は,アウトプットを持てない「数学教育」に対し,アウトプット向上プロジェクトを打ち上げることを,生業にする。
    本質的にアウトプットを持てないものに対しアウトプット向上を促すのだから,これは攪乱である。
    攪乱以上でも以下でもない。

    攪乱を生業にするものは,もちろん「数学教育」ばかりでなく,いろいろある。
    これらは,商品経済の系の攪乱に自らがなって,これを「経済効果」に転じることを,営むものである。

    みんなを「どうしたらそれができるか?」の思いにさせ,動き回らせる,これが攪乱である。
    どうしたらそれができるか?」の思いになって動き回ることは,経済活動になる。
    こうして,攪乱は「経済効果」である。

    「数学教育学」は,「数学教育」の攪乱を生業にする。
    「数学教育」を,「どうしたらそれができるか?」の思いにさせ,動き回らせる。
    この攪乱の要諦は,できもしないことを負わせることである。
    「数学教育学」にしても,「できもしないことを負わせる」を自分がやっているとは思っていない。 ──実際,だからこそ,攪乱を務められる。

    「数学教育」は,アウトプットを持たない。
    「数学教育学」は,アウトプットを持てない「数学教育」に対し,アウトプット向上プロジェクトを打ち上げることを,生業にする。
    「数学教育学」は,「数学教育」に「できもしないことを負わせる」をやる。
    これらのことは,「数学教育」「数学教育学」をやっていると,自ずと気づかれてくる。
    そして,「数学教育」「数学教育学」の経験を積むほどに,確信されてくる。

    こうして,「数学教育学」は,自分の存在の問いをもつ:
      自分の在り方は,果たしてこれか?