Up 瑣末主義の構造 作成: 2015-12-24
更新: 2015-12-24


    数学教育学は,「数学教育学」を生業う者が行うことである。
    ここで,数学教育学を行うことは,「数学教育学」を生業うことと一致しない。

    「数学教育学」を生業うことは,数学教育学を学術として行うことである。
    学術は,学会の学術である。
    学会は,学術の仕様を定めるところである。
    この仕様は,「パラダイム」と呼ばれる。

    「数学教育学」を生業うとは,パラダイムを行うことである。
    数学教育学を行うことは,パラダイムを行うことと一致しない。
    これが,「数学教育学を行うことは,「数学教育学」を生業うことと一致しない」の意味である。


    学術の形は,学会論文である。
    「数学教育学」の生業は,学会論文をつくることである。
    「数学教育学」を生業にする者は,学会論文づくりを欠かせない。

    《学会論文づくりを欠かせない》の立場でつくる論文づくりは,論文づくりのための論文づくりになる。
    論文をつくるためには,何を主題にしたらよいか?」「自分は,どんな主題だったら論文をつくれるか?」になる。
    本来は,主題の動機があって論文づくりである。
    この順番が逆転するのが,「論文づくりのための論文づくり」である。

    「論文づくりのための論文づくり」は,主題の瑣末主義になる。
    論文をつくるためには,何を主題にしたらよいか?」「自分は,どんな主題だったら論文をつくれるか?」が択ぶ主題は,瑣末な主題になる。
    なぜか?
    瑣末な主題の論文づくりが,確実な論文づくりになるからである。


    瑣末主義は,必然であり理であるが,つまらない。
    確実はつまらないというわけである。
    確実な論文は,おもしろい論文ではない。

    おもしろい論文は,冒険が有る論文である。

    学会からおもしろい論文は出て来ない。
    冒険は,パラダイムを逸脱するからである。
    学会は,構造的に,おもしろい論文を出せない。