論文を書くとは : 要旨 作成: 2016-03-09
更新: 2016-03-10


    現前の「数学教育学」は,「論文を書く」の意味がますますわからなくなっていくふうに,進化している。
    数学教育学専攻の大学院生は,この「数学教育学」の中に棲み,そして論文を書く者である。
    院生のこの体勢は,流されるに易く,立つに難い。

    <立つ>の意識のないままに論文を書く者は,流される。
    そこで,「論文を書くとは」のテーマを,ここに改めて立てるとする。


    そもそも「論文を書く」と数学教育学の関係は?

    ここに,ムクドリの集団飛行の絵がある:
    個は,周囲の個の動きに同調・同期しようとして動く。
    この単純原理が,目まぐるしく変化する集団飛行の形をつくり出す。

    このダイナミクスは,カタストロフィー理論の謂うカタストロフを,逐次析出する。
    カタストロフは,集団飛行の新たな展開の契機になる。

    集団飛行の形は個々のムクドリがつくるものであるが,いまこの集団飛行の主語を<ムクドリの系>にしてみる。
    このとき,「自己参照・自己修復で逐次自己更新する動的平衡系」の概念が得られる。

    個々の「論文を書く」は,この集団飛行するムクドリのようなものである。
    ──集団飛行の系が数学教育学である。
    翻って,これを「論文を書くとは」を考える視座にする:
    1. 数学教育学は,個々の「論文を書く」を個とする系である。
    2. 個は,周囲の個の動きに同調・同期しようとして動く。
      これが,巨視的に「数学教育学」の運動を現す。
    3. 同調・同期のダイナミクスは,カタストロフを逐次析出する。
      カタストロフは,数学教育学の新たな展開の契機になる。
    4. 運動・生成の主語を数学教育学にするとき,数学教育学は「自己参照・自己修復で逐次自己更新する動的平衡系」である。

     強調:ここでは「論文を書く」を,数学教育学の「個」として考える。
        個人を「個」として考えるのではない


    ムクドリの集団飛行における「カタストロフ」の正体は何か?

    集団の外面の位置に出てしまった/出されてしまった個は,集団の中にもぐり込もうとする。
    全ての個が周囲との同調・同期に終始すれば,集団飛行の形はほぼ団子の形に収まり,大きくは変化しない。
    カタストロフの現象は,「個の多様性」として逸脱者 (主体的行動者) が一定割合で存在することを示している。
    この逸脱者に周りがつられて動くとき,カタストロフが形成される。

    系の中で個が周囲との同調・同期に終始する様が,「流される」である。
    数学教育学専攻の大学院生の「論文を書く」に主体性が求められるとき,その「主体性」の意味は「流されない」「流されることを自ら拒む」である。
    「自分はどのように動きたいのかを自問し,自分の動きたいように動いてみようとする」である。
    「論文を書く」が主体的であることは,数学教育学 (系) のカタストロフ (系の新たな展開の契機) になる「論文を書く」であるための,必要条件である。

     註 : 「主体的な個」には,つぎのタイプがある:
     A. 自ら主体的を求める個
     B. 主体的の立ち位置をとらされた個
        前線に立たされてしまった個
        引っ込みがつかなくなった個


    「論文を書く」を以上のように位置づけたところで,本論考は「論文を書くとは」を「主体的に論文を書くとは」で論じることにする。
    (「流されて論文を書くとは」を論じてもつまらない。)

    本論考は,3節の構成につくる:

    現前の「数学教育学」における「論文を書く」は,いまどうなっているか?
    ──この論考を,「情況」の節に充てる。

    カタストロフになり得る「論文を書く」(主体的な「論文を書く」)は,どのようなものか?
    「カタストロフ」には,「おもしろい」が含意される。
     (おもしろくない論文は,カタストロフにはならない。)
    「おもしろい」には,「表現」が含意される。
     (表現でない論文は,おもしろくない。)
    「表現」には,「方法論」が含意される。
    ──この論考を,「方法論」の節に充てる。

    表現は,技術を要する。
    ──この論考を,「表現技法」の節に充てる。