存在論者対認識論者 作成: 2016-03-08
更新: 2016-03-08


    写実から見ると,表現は<歪曲・誇張・ウソ>であり,不遜・不埒 (現前を尊重してないふう) である:
      不真面目に書き,
      不真面目に読む

    写実は,<書く・読む>に対し認識の当否でのぞむ。
    表現者が存在論者になるのに対し,写実者は認識論者である。

    こうして,<書く・読む>への構え方に,表現/存在論者タイプと写実/認識論者の2タイプが立つ:
      表現者: 存在論者: 存在の措定を見る: 不遜・不埒
      写実者: 認識論者: 認識の当否を見る: 倫理的


    表現/存在論者と写実/認識論者の間に,議論は成立しない。

    存在論である数学は,自分に相対してくる認識論 (「2×3」の数学に対し「一皿2個のリンゴ3皿の抽象が 2×3」を言ってくる類) を相手にしない方法として,「意味から完全独立」を用いる。
    即ち,形式主義であり,これは公理主義の徹底である。

    素粒子物理学・宇宙物理学は,相対性理論を公理とする,公理主義である。
    公理に合わない現象に遭遇したら,公理を保てる存在を創り出す。「素粒子」はこの類である。
    また,公理から導かれるものは,存在しなければならない。「重力波」はこの類である。


    「存在論者対認識論者」の卑近な例で,「論文」に関することでは,「査読者の当たり外れ」がある。
    表現タイプの論文は,写実タイプの査読者にあたってしまったら,アウトである。

     註 : 「表現/存在論者と写実/認識論者の2タイプ」の意味は,「人にはこの2タイプがある」ではない。
    「人はこの2タイプを使い分ける」である。
    こましゃくれた表現/存在論の論文を相手にすることになった査読者は,反動で,写実/認識論者になるかも知れない。