存在論 | 作成: 2016-03-08 更新: 2016-03-08 |
「方法論が主で内容が従」になる。 この構えが,身についていく/身についてしまう。 「方法論はクセになる」というわけである。
画家が風景,静物,人物,‥‥ を描くとき,その風景,静物,人物,‥‥ は「方法論の素材」である。 画家は,自分の方法論をいろいろな素材で試しているわけである。 方法論がクセになったカラダは,「数学教育」が「方法論の素材」のように見える。 このカラダにとって,論文を書くことは方法論を書くことである。 このカラダが論文を読むときは,先ず方法論の有無を見る。そして方法論が見出せたら,論文を<相手の手の内を読む>のように読む。 表現者──方法論を通して世界を視る者──は,方法論が<存在>になる/なってしまう者である。 方法論の役どころは「メガネ」といったところであるが,ここでさらに「メガネに対する現前の逆像」として<存在>を立てると,イデア論(「現前はイデアの映像」) になる。 「メガネ・逆像一体」が「イデア」であり,「逆像」はここでは思念不能の概念であるから,「メガネ」と「イデア」は基本的に同型である。 こうして,表現者は,「メガネ/イデア」の存在論を用いる者である。 表現者は,存在論者に往ってしまう。 表現者/存在者は,現前が存在でなくなる者である。 そこで,現前を指すことばには,いちいち括弧をつけたくなる。 論文で括弧を多用する者は,表現者/存在論者の体質を身につけてしまった者である。 ちなみに,数学は,その方法論において,典型的に存在論である。 数学者のイメージに「プラトニズム的リアリスト」があるが,実際,そのような意識はなくても見掛けはそうなる。 少なくとも,数学をやることは,「形・型・構造で見る」「同型を見る」が身につく/ついてしまうことである。 この体質は,やはり特殊である。 ──他から見れば,「ビョーキ」である。 数学を見る見方の一つに,道具主義がある。 道具主義は,プラグマティズムを文脈にすることが一般的なので,印象としてイデア論的存在論の対極のように見えるが,実はいちばんのイデア論的存在論である。 実際,「道具」の存在的身分は「型」であり,「型」はイデア的存在そのものである。 |