Up | おわりに | 作成: 2017-07-31 更新: 2017-07-31 |
<数学を教える>は,主体的<数学を学ぶ>の支援であれば,矛盾はない。 「数学教育とは何か?」の問いを立てるとき,その「数学教育」は公教育の「数学教育」である。 これは,一斉教育である。 一斉教育は,多様な個を一律に扱うことになる。 この<数学を教える><数学を学ぶ>は,強いる・強いられるものになる。 そしてこれは,矛盾構造になる。 この数学教育の矛盾は,「公教育」という在り方に溯る。 「公教育」は一定の理の実現である。 矛盾は,「公教育」の理の含意であり,理である。 「公教育」の理を受け入れることは,この理から論理的に導かれるすべての理を──矛盾を含めて──受け入れることである。 このロジックを理解していない者が,矛盾を是非の問題にする。 そして,矛盾をどうにかしようとして,おおもとをおかしくしていく。 数学教育の歴史は,同じことの行ったり来たりであるが,それは<おかしくする・後戻りする>のダイナミクスの現象である。 一方,<矛盾を是非の問題にして,おおもとをおかしくしていく>は,無くてならないものである。 経済はこのダイナミクスで回るからである。 数学教育は,経済──この場合は「商品経済」──のモジュールである。 商品経済に,意味・目的はない。 商品経済は,自己言及的 self-referential 自己組織系である。 これは,<運動>で閉じている系である。 <運動>は,何かに向かう運動,何かを実現するための運動ではない。 <場を更新し且つ場によって更新される>が連続して生じている運動である。 数学教育は,商品経済のモジュールとして,商品経済を回転させることが機能である。 この国の商品経済は,いまは「グローバリズム」のステージにある。 したがって,数学教育は「グローバリズム世界で勝つ/負けない人材の育成」を課題に立てるものになる。 実際そうなっている (「数学的リテラシー」)。 こういうわけで,「数学教育とは何か?」の問いに対する答えの論型は,商品経済論と集団力学論 (「一斉」論) ──さらに二つを括って,生態系論──である。 ひとは,「何か?」の問いに対する答えの論型として,先ず「意味論・目的論」を想う。 しかし,ひとが「何か?」を問おうとする対象は,既に<所与>になっているものである。 そして,<所与>は,既に自動化しているものである。 起源において意味・目的から発していても,その都度の場適応によって当初の意味・目的を失っている。 「数学教育」も,この場合である。 生態系論は,是非論ではない。 「現前は理が成った態」論の意味での,現成論である。( 「現成論」) 《数学教育は,<回転>を自己目的化している商品経済のモジュール》は,現成である。 実際,数学教育はこれの他ではない。 本論考は,「数学を学ぶ・教える」を,個と員の次元に分けた。 このとき,「数学教育とは何か?」は,員の次元の問いである。 即ち,「数学の公教育とは何か?」である。 そしてこれの答えは,「公」の位相と「一斉」の含蓄が内容になる。 前者を語ることは,「商品経済」を語ることである。 後者を語ることは,「集団力学」を語ることである。 本テクストは,
意味論・目的論 (趣は是非論) を以てするのではない。 商品経済論・集団力学論 (趣は現成論) を以てする。 これに続くものは,「商品経済」「集団力学」の内容を詳らかにする作業である。 |