Up 数学の勉強は何のため? 作成: 2017-08-19
更新: 2017-08-19


    数学教育に係わる者は,つぎの根源的な問いを負う:
      数学の勉強は何のため?
    実際,自分の実践を理由づけることばは,この問いの答えのことばである。

    この問いの答えをつくることは,難しい。
    そこでひとは,お手軽の答えもどきをつくって,これで納得しようとする (自己欺瞞)。
    しかし,その答えもどきは,生徒を見れば,実際と乖離していることが忽ちにわかる。
    そしてその答えもどきは,自分はだませても,それで生徒をだませるものにはならない。

    そして生徒は,「数学の勉強は何のため?」を発信し続ける存在である。
    数学教育に係わる者は,彼らによって,根源的な「数学の勉強は何のため?」の問いから逃げられない。


    数学の勉強は何のため?」の答えをつくる困難は,答えがことばにならないという困難である。

    ヘーゲルの存在論に,「量から質への転化」というのがある。
    「量が高じれば,ものが変わる」というわけである。
    また,これと同型の表現が,複雑系科学の中にある:
      「複雑が高じれば,相転移が起こる」

    さて,「数学を勉強して何になる?」の答えは,これである。
    いろいろ勉強することは,量が高じることであり,複雑が高じることである。
    これにより,カラダの相転移が起こる。
    この「カラダの相転移」の意義は,「適応」である。
    数学を勉強して何になる?」の答えは,「適応の向上!」である。

    この「適応の向上」は,ことばで言い表せない。
    数学を勉強して何になる?」の問いに,ひとは「こんなよいことがある」の言い方で答えようとする。
    これがそもそもの間違いである。


    数学の勉強とこれを契機として起こるカラダの変容の関係は,複雑系科学の謂う「創発 emergence」である。
    カラダの変容は,勉強した内容が現れることではない。
    しかし「創発」の考え方は,ひとに馴染まない。
    ひとには,認知科学の「スキーマ」の類の考え方が馴染む。
    数学の勉強とカラダの関係を,「数学的○○の力がつく」──「○○」:「考え方」「問題解決能力」「リテラシー」──のように考える。

    「創発」の考え方と「スキーマ」の考え方はどのように対比されるかを確認しておく。

    「創発」では,数学の勉強とこれの結果としてのカラダは,別の階層にある。
    ことばは<数学の勉強>の階層と対応していて,カラダの階層はことばの埒外になる。

    これに対し「スキーマ」では,カラダはその中に行為主体 (「小人」) を棲まわせているように発想される。
    数学を勉強すると,勉強したことを活用する小人が活動し出すのである。
    自分と小人は,行為主体として同等である。
    したがって,行為主体を語る日常語で同等に表現できる。
    小人はカラダのことであるから,これは《カラダは行為主体を語る日常語で表現できる》を意味する。
    こうして, 「数学的○○」の表現となる。──数学を勉強するとカラダが「数学的」になるというわけである。


    創発である相転移により新たに発現するようになることがらは,言い表せない。
    「相転移」の説明は,「相転移したカラダが現してくるもの」という形の説明にはならない。
    「相転移」の説明は,「相転移のメカニズム」の説明にとどまる。

    相転移は,どんなメカニズムとして説明されるか。
    S.A. Kauffman の「自動触媒セット autocatalytic set」のアイデアに乗ってみることにする:
    1. 複雑な系では,触媒が発現する。
    2. <触媒の発現>の内容に,<新たな触媒の生成>が含まれ得る。
    3. 触媒の順次生成の系列は,輪をつくって閉じることが起こり得る──触媒サイクルの現出。
    4. 触媒サイクルは,ポジティブ・フィードバックである。よって,系の相転移へと進み得る。

    翻って,一般に「形式陶冶」は,このプロセスが起こることを期すものとして理解される。
    形式陶冶は,よい陶冶材を選ぶことが肝である。
    「よい」の意味は,「触媒効果の高さ」である。
    形式陶冶に数学を択ぶとき,その理由は「触媒効果の高さ」ということになる。

    「触媒」の内容は,不明である。
    よって「形式陶冶」は,意味不明である。
    「形式陶冶」を「一般陶冶」と読み換える向きがあるが,これは間違いである。
    「問題解決力をつける」の類も外れである。


  • 参考文献
    • Kauffman, Stuart (2000). "Investigations". Oxford University Press.
      河野至恩[訳]『カウフマン,生命と宇宙を語る : 複雑系からみた進化の仕組み』, 日本経済新聞社, 2002