Up <不快存在>──ヘイト学 作成: 2019-04-02
更新: 2019-04-02


    ひとは,存在者に対し<快・不快>を立てる。
    そして不快者に対しては,これから回避しようとし,回避が困難なときはこれを排除しようとし,排除が困難なときは退治しようとする。

    これは,敵・害を立ててこれを回避・排除・退治しようとするのとは,区別される。
    実際,身近な蜘蛛で無害と知られているものも,この扱いを受ける。
    少年によるホームレス狩りも,この類である。


    今日,ひとは都市生活者である。
    自分の生活行動圏を,アスファルトで覆い,コンクリートで囲う。
    この領域は,生物の圧倒的多数を排除する。
    そして,生物の圧倒的多数を排除したこの生活空間が,ひとにとっての当たり前になる。

    人の生活空間から排除された生物が人の生活空間に入ってくるとき,ひとをこれを不快存在とする。
    そしてこの場合は<回避>はあり得ないので,<排除>ないし<退治>を行動することになる。

    不快存在の<排除>ないし<退治>は,それ自体が不快である。
    そこでひとは,これを他の者に委託したくなる。
    ここに不快存在の排除・退治が,ビジネスとして立つことになる。

    <不快>は,人の勝手である。
    このビジネスは,人の勝手を自分にとって都合のよいものにして,生き物を害し・殺生していることになる。
    これは,ビジネスにとって気持ちのよいものではない。
    そこで,ビジネスは,己を合理化する論の開発に進む。
    そして出てくるのが,「衛生」である。
    ビジネスは,自身を「衛生ビジネス」と位置づける。

    この合理化は,不快存在の排除・退治を願いとする一般生活者にも歓迎されるところとなる。
    自分の感性・生活スタイルの合理化になるからである。
    こうして,衛生ビジネスと一般生活者のライフスタイルが,正のフィードバックを形成する。

    「学者」は,一般生活者の延長である。
    多くは,学者になる前に「衛生」理論に取り込まれてしまう。
    衛生ビジネスは学術界とも正のフィードバックを形成する。

    かくして,衛生ビジネスは巨大化し,巨大化するばかりとなる。
    そして,ひとの思考・行動様式をリードしていく。


    「衛生」は,科学的に間違いである。
    「衛生」は,イデオロギーである。
    「衛生」は,自然の系を考えられない単純思考がつくるイデオロギーである。

    このイデオロギーは,無害ではなく有害である。
    ホームレス狩りする少年は,「衛生」イデオロギーの者である。
    「衛生」イデオロギーは,「ヘイト」に通ずる。

    この理は,「衛生」概念の拡張を以て,拡張される。

    例えば,植民者が先住者に対しヘイト感情を醸成していくようになるということ。
    このようになるのは,植民者がすっかり丸裸にしようとするジャングルのうちに,先住者が含まれることになるからである。
    植民者にとって,大地は丸裸であるのが「先進的」であり,草木や蟲に覆われている様は,「未開」である。
    これは「衛生」観念に他ならない。
    そしてこの「衛生」観念が,先住者に対する<バイ菌>視に転じ,ヘイト感情を醸成していく。


    いまは,不寛容の時代である。
    「不寛容」は,潔癖主義である。
    不寛容の時代は,「衛生」イデオロギーの時代である。
    そして「衛生」イデオロギーは「ヘイト」に通ずるわけであるから,いまの時代状況は危ういわけである。

    「蟲」を主題化する理由は,ここにある。

      これは「エコロジー」の主題になるものであるが,「エコロジー」のことばは科学よりもイデオロギーを指すふうになっている。
      そしてこのイデオロギーは,ご都合主義の「衛生」イデオロギーである。
      よって,今日「エコロジー」のことばを科学のことばとして用いようとするときは,たくさんの注釈を重ねねばならなくなる。