Up | 傑出 | 作成: 2018-10-29 更新: 2018-10-29 |
この<傑出>を成しているのは,曲と詞の両面での<傑出>である。 <傑出>は,相対性である。 エレカシは絶対的に<傑出>なのではない。 「ロック・ミュージック」シーンが,エレカシを<傑出>にするようなものになっている,ということである。 このシーンにおいては,エレカシは曲と詞の両面で<傑出>となる。 (1) 曲の傑出 初期の曲は,邦楽民謡に近い。 歌いぶりが,盆踊り唄の
初期の曲が邦楽民謡に近いことは,詞の字数にも見て取れる。 他のロック屋の曲に比べて,圧倒的に字数が少ない。 盆踊り唄,浄瑠璃は,舞台曲である。 また,初期の曲はパンクであるが,このパンクも舞台曲である。──実際,舞台から聴衆に対し挑発・アジテーションするというのが,パンクのスタイルである。 これは,エレカシがライブバンドであることを説明する。 舞台曲の反対は,鼻歌曲である。 鼻歌曲のライブコンサートは,設定が舞台なので,構造的な無理がある。 そこで,無理を通すための工夫がいろいろ必要になる。 これが「演出」である──「演出」の意味である。 一方,エレカシのライブコンサートは,曲が舞台曲なので,無理が無い。 演出は必要ない──演出はただ嫌味になる。 実際,エレカシのライブコンサートは,日比谷野音でのものが秀逸である。 とばし過ぎで終盤はだいたい声が出なくなるが,ライブは祭りであって,そして祭りはグチャグチャをフィナーレとするものなので,それはそれできっちりはまっているわけである。 「ロック・ミュージック」シーンには,エレカシのような歌唱スタイルは無かった。 エレカシは,曲において自ずと傑出することになる。 (2) 詞の傑出 <行く>のための<行く>──幻想の<行く>──を, 「ロック・ミュージック」シーンは,このスタイルの者はエレカシの他にはいない。 かくして,エレカシは詞において傑出する。 実際,ふつうは,このスタイルはずっと続けられるものではない。 青臭いし,ワンパターンは厭きられる。 エレカシがこれを免れてきているのは,作詞・作曲・歌唱・演奏の才能による。 この才能は,とうぜん,表現を枯渇させない努力のたまものでもある。 エレカシの詞は他のロック屋の詞とくらべて際立って文学的だが,これは思想・文学を自己陶冶の必須項目にしてきたことをうかがわせる。 しかし,才能はあっても,作業が困難であることに違いはない。 実際,不出来な作品は少なくない。 「不出来」の内容は,詞では,「詞がダサい」と「詞と曲が合っていない」になる。 つぎは,この両方の場合である:
これは,曲に乗せる詞になっていない。 ことばは何でも歌になるというわけではない。 ことばを曲に乗せるときは,ことばが曲に乗ることばになっていなければならない。 例えば,つぎは盆踊り唄の「鈴木主水口説き」。 ことばが,曲に乗せられるばかりとなっている。
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