Up AI は人間を超える/超えられない」論作法 作成: 2021-08-01
更新: 2021-08-01


    ひとは,AI を人間の知能と比べる。
    そして「AI は人間を超える/超えられない」の論をつくらないではおれない。
    AI が人間を負かす分野が,増える一方だからである。


    いま,AI を1つ固定して考えよう。
    このとき,「人間対 AI」は「人それぞれ」──全称の人間ではなく特称の個人──で論じることになる。
    知能の質はひとによって異なり,そして同じ質でもレベルがひとによって違うからである。


    先ず,《知能の質はひとによって異なる》から。
    このときの「人間対 AI」の「人それぞれ」は,つぎの区別である:
      (a) 知能の次元が AI と同じ者
      (b) 知能の次元が AI と違う者

    (a) は,「人間対 AI」が「勝負」で考えられるようになる。
    このときの「人それぞれ」は,《同じ質の知能でも,レベルがひとによって違う》であり,つぎの区別である:
      (a1) AI を負かす者
      (a2) AI に負かされる者


    (a) の場合
    人間の頭脳はさほど進化せず,そして AI は進歩する一方なので,人間は AI に負かされることになる。
    この意味では,「AI は人間を超える


    (b) の場合
    ──即ち,「個人Xの知能は AI の知能とは次元が違う」の場合
    これは,Xと AI が(はな)から勝負にならない場合である。
    そしてこれは,「AI はXを超えられない」となる場合である。
    以下,これの説明。


    AI の知能の内容は,<同調>である。
    AI が学習データから学習するものは,<同調>のパターンである。
    人の求めに AI が返してくるものは,咎められない・褒められるパターンである。

    AI は,何かのパターンをつくっているのではない。
    AI には,「何」の概念がない。

    これに対し (b) の個人Xは,<何>を考え,<何>を行動する。
    Xが現すパターンは,何かのパターンである。


    人のふつうは,同調──咎められない・褒められるパターンをつくる──の方である。
    Xは,人のふつうではない。
    ニーチェならXを「超人」と呼ぶところであるが,本テクストは,人のふつうを「大衆」と呼ぶことにする。
    よってXに対する呼び方は,「超大衆」である。


    あなたはいま,「そんなことはない。ひとが考え行動するときは,<何>がもとにある」と返したくてうずうずしている。
    しかし,論より証拠,ひとは「何?」と問われると答えに窮する。
    窮するのは,<何>が無いから窮するのである。

    たとえば,あなたは数計算が得意である。
    しかし,「数って何?」「かけ算って何?」と問われると,答えに窮する。
    窮するのは,「数って何?」「かけ算って何?」などこれまで考えたことがないからである。

    ひとは,ことばをしゃべる。
    そのことばは,見事に文法に適っている
    しかし,文法──それを形式化すれば,チョムスキーが探求した「生成文法」になる──など考えたこともない。
    ひとは,文法に順ってしゃべっているのではない。
    しゃべるという行為が先にあり,文法は後付けである。

    ひとは,数計算やしゃべり方をどうやって身につけてきたのか?
    <同調>で身につけてきたのである。

    人間の知能は,これがふつうである。
    そしてこの知能を真似たのが,AI なのである。

     註: チョムスキーは,文法実在論 (「文法は心的実在」) を立場にした。
    しかし,<同調>を学習させる方法で,テクスト生成 AI (「GPT-3」) が実現された。 これは,文法実在論への直接反証である。


    まとめ
    • AI は,大衆──<同調>する知能──を真似たものである。
      この AI は,大衆を超えることになる。
    • 超大衆は,考え・行動を<何>から生成する知能である。
      AI は,超大衆をおびやかすものではない。