Up 「少子化」の論点 作成: 2023-03-05
更新: 2023-03-06


    「少子化」は,政治では「大きな問題」だが,科学の視点では「ひじょうに興味深い出来事」である。
    「少子化」は,不合理なことが起こっているのではない。
    物事は,理に沿って進捗している。
    この理が,科学にとってひじょうに興味深いものになるのである。


    「少子化」は,従来の繁殖システムが崩れている現象である。
    《従来の繁殖システムが崩れる》は,進化のうちである。
    進化には良いも悪いも無い。
    「少子化」は,「物は上から下に落ちる」のように進行しているに過ぎない。


    従来の繁殖システムは,<巣づくり・出産・巣内育児>である。
    育児は,子にかかりっきりになることを要する。
    よって,<巣内育児>は,<専ら巣で生活する親>が必要条件になる。
    従来のシステムは,<専ら巣で生活する親>に<専業主婦>を充てるというものであった。

    しかし社会は,「男女平等」を立てることになり,その内容を「女性の社会進出」にした。
    こうして「専業主婦」は,男女不平等の象徴/典型というものになり,女が択んではならないものになる。
    過去には「花嫁修行」ということばがあったが,いまは死語である。
    実際,いまこのことばを使えば,「女性差別」になる。

    社会進出と<専ら巣で生活する親>の両立は,自営業であれば可能性がある。
    しかし,日本の社会は,ほぼ<企業に雇用される>が社会進出の形になる。
    この場合<専ら巣で生活する親>が可能になるのは,<仕事がオンラインで済ませられて出勤無用>が労働形態になる企業に限られる。
    しかしこれは,希少なケースということになる。
    結局,社会進出と<専ら巣で生活する親>は,全般に両立しない。


    そして<企業に雇用される>ことは,住まいを<自分独りが生活できれば十分>に定めることである。
    実際,親から独り立ちしようとする子どもは,親の家を出るのであり,住まいは経済的理由から<自分独りが生活できれば十分>以上は望めない。
    しかし,<自分独りが生活できれば十分>は,これに嵌まってしまうことになる。

    安い住まいでの子育ては,いまの時代はできなくなくなっている。
    現在は育児が騒音問題になる。
    育児する者は,<子どもが発する音に対する周りの反応>に怯えて生きることになる。
    「長屋で子育て」は,昔はあたりまえのことであったが,いまはできない。
    繁殖のためには,<自分独りが生活できれば十分>から脱けて繁殖ができる巣をもたねばならない。
    そしてこれが,ひどくたいへんなことになる。

    蓄えのない者が<子育てが可能>な住まいを得るには,ローンを組まねばならない。
    しかしそれができるのは,「終身雇用」が制度になっている場合である。
    そしてこの制度も,ひとはこれを旧弊であると定めて,終わらせた。
    こうして将来はあてになるものがないので,住まいは<自分独りが生活できれば十分>から先に進まない。


    こういうわけで,いまの世代にとって,繁殖のための巣を設けることは無理である。
    そして社会進出のため,そもそも巣で育児するということが無理である。
    繁殖ができないものになるので,結婚の意味もなくなる。
    こうして,結婚しない,子どもをつくらないが,世の趨勢になる。
    これがいまの「少子化」である。


    「保育所」を「少子化」のソルーションにするという考えがある。
    この考えには,気持ちの悪さがある。
    これは要するに<産む>と<育てる>の分業ということであり,そしてこれの極としてつぎの二つが思い浮かぶからである。
    一つは,「キブツ」。
    もう一つは,「カッコー」。
    前者は「コミューン」イデオロギーに支配されることであり,後者は「利己的な遺伝子」に支配されることである。


    「少子化」の論点は,以上で揃ったのではない。
    「少子化」には,子どもをもつことのリスクの問題も係わっている。

    いまは,離婚がふつうである。
    子どもをつくって離婚となると,「シングルマザー」の話になる。
    シングルマザーは,強くないと子どもと共倒れになる。

    子どもには,事故・事件がつきものである。
    「非行」があり,そしていまは「引き籠もり」がふつうである。

    子どもをつくっている者は,こんな面倒は自分の場合には起こらないと楽観していることになる。
    実際,子づくりの要諦は楽観主義──「何とかなる」──である。
    しかしいまの社会は,すべてにおいて楽観主義を潰すようになっている。


    また,「少子化」は「高齢者人口過多」の裏返しである。
    「少子化」の「危機」は,「国細り」と「高齢者をおんぶする若い世代の減少」の二つの意味で考えられている。
    後者については,「高齢者人口比率の推移」が論点になる。
    しかし簡単なシミュレーションが示すことは,高齢者人口の比率が高い状態はこれからもずっと続くということである。

    「高齢者人口過多」の問題は触れられない。
    これに触れることは,いまの時代は不正義になるからである。
    いまの時代の正義は,「高齢者を守る」を唱えることである。
    「少子化」は,「高齢者人口過多」を言えないので,かわりに「少子化」を言っているという面もある。

      念のため:
      「高齢者を守る」は,高齢者を守ることではない。
      「高齢者を守る」を施されることは,高齢者にとって災難である。
      生命維持を強いられることは,廃人化 (特に痴呆化) を強いられることだからである。


    「少子化」の将来はどうなるのか?

    「少子化」は,解決するというものではない。
    「少子化」は,ひとが「これがよい」と定めてやってきたことの結果である。
    すべて理の通りに進んでいるのである。

    「少子化」の将来も「理の進行」の視点で考えることになる。
    「少子化」を不具合とする系は,員が他の形によって増えることになる。
    それは「移民」である。