2019-04-11,およそつぎのような論調で「ブラックホールの撮影成功」の報道がされた:
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国立天文台など世界約80の研究機関による国際チームは10日、ブラックホールの撮影に初めて成功したと発表」
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そして,つぎが「ブラックホール」の画像だという:
これは,受信電磁波データに対し視覚化の画像処理をしたものであるが,「いかにも」という絵に仕上げられている。
「いかにも」というのは,「ブラックホールの口」がこっちを向いている絵につくられているからである。
SF映画で「ブラックホール」を絵にするときは,「ブラックホール」の口と壁を描く。
ブラックホールを漏斗のように描くわけである。
実際,「一点に吸い込まれる」の絵は,こういう絵にする他ない。
一方,「ブラックホール」は,三次元等方性で考えることになるものである。
これの2次元画像は,どんなものを考えたらよいか。
本来なら,表現論が先ず提起されねばならない。
しかし,ひと/メディアは「漏斗」の絵に慣らされているので,上のような絵を示されてよろこぶことになる。
そこで「研究者」も,これに迎合した絵をつくることになる。
一種ペテンであるが,これは科学が立てる「事実」の意味を,改めて教えてくれる。
科学は,目に見えないもの (「非在」) の存在論を,「理論」としてつくる。
そして,理論の確証として,理論を裏付ける現象を見つけようとする。
使えそうな現象が見つかり,そして理論と齟齬するところがあれば,理論を調節する。
理論と実証は,互いに都合よくチューニングされる。
これは「ご都合主義」ということになる。
はなから見えないものを対象にする素粒子物理学などだと,これがよくわかる。
しかし,「ご都合主義」は,科学の一般的方法論である。
「人文・社会科学」などは対象が大きくて目に見えているように思ってしまうが,「目に見えている」は錯覚である。
──あくまでも「非在」が対象である。
かくして,「事実」とは,多数に承認された<理論と実証の円環>のことである。
ここで「多数」には,「大衆が専門家に寄り掛かる」が含まれる。
特に,科学は真理発見・探求の営みというものではない。
科学は,<理論と実証の円環>をつくるゲームである。
科学者とは,このゲームのプレイヤーであり,これが生業として立っている者のことである。
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