Up 読売<反AI>キャンペーン記事の読み方 作成: 2024-05-01
更新: 2024-05-01


読売新聞, 2024-04-30



    はじめに用語から。
    「生成AI」のことばはミスリーディングである。
    「生成」は, 「AI」の含意だからである。
    実際,AI のメカニズムはニューラルネットワークであるが,ニューラルネットワークの機能は「生成」である(註)


    読売新聞は,さかんに<反AI>をキャンペーンしてきている。
    AI の登場によって困っている者たちを取り上げる。
    その<AI の登場によって困る>は,<AI の登場によって自分のやっていることが無意味になるので困る><AI の登場によって自分が要らなくなるので困る>である。

    <AI の登場によって要らなくなる仕事がある>から,何を導くか?
    読売のように「AI に制限をかけろ」か?
    しかし「その仕事はもう旧い」を導くというのもある。

    英語の学習は,いまでは AI を教師にした方がはかどるし,信用もできる。
    実際,学校の英語科担当教員も,いまはネットで勉強しているはずであり,そして勉強しているそのテクストは AI が作成しているのである。
    そこで, 「学校教員をバイパスして AI に進んで何が悪い?」となってくる。


    ひとは,学校の授業を絶対正義のように思っているが,それは間違いである。
    学校に通うことを義務にしているのは,「よい社会人」にするためである。
    「よい」の意味は?
    「よい」の反対の「悪い」は,「非同調的」である。

    教科に対する教員の習熟は,教員養成コースなんかで成るものではない。
    そして,授業以外の時間が雑用で埋まってしまう学校は,教科の習熟に取り組めるところではない。
    学校の授業の実際がどんなかは,推して知るべしである。

    よって,学校の授業よりまさる教育方法があれば,学校と教科教育は分離してよいのである。
    そしてこれが,AI の登場によって,まさに起こっている。
    物理的な分離は穏やかでないので,行動の次元で分離が進んでいく。
    AI に「正解」を作らせ丸写しする生徒は,「教員の評価は必要無い!」と言っているのである。


    こういうわけで,読売新聞の<反AI>キャンペーンは,取り上げられる方にとっては痛し痒しのところがある。
    「あまり言ってくれるな」となるわけである。


    註. 「生成」
    AI を実現することは,「フレーム問題」を解決することであった。
    そして,「ニューラルネットワーク」がこれの解決になった。
    フレーム問題は,決定論に立つことが原因である。
    ニューラルネットワークは,非決定論のアーキテクチャである。
    これのアウトプットは,「よい塩梅(あんばい)」のアウトプットである。
    これが「生成」の意味である。
    ニューラルネットワークは,「脳」がこれのイメージである。
    「よい塩梅(あんばい)」ができる脳は,学習でつくる。
    AI の学習は,ビッグデータの学習である。
    ニューラルネットワークができても,ビッグデータの学習が可能でなければ,AI の実現は無い。
    ここで,インターネットの出番となる。
    インターネットで無数の知識データがつながるようになっている。
    その無数の知識データにアクセスすることが,そのままビッグデータの学習になる!
    こうして,強大なロボット型検索エンジンを持っている企業が,もっとも強大な AI を開発する企業に近いことになる。
    実際,そうなっているわけである。