Up | 新聞の終焉 | 作成: 2023-04-24 更新: 2023-004-24 |
こうして,人がデジタルで制作しているもの──デジタルで制作できてしまうもの──は,すべて AI に凌駕されることになる。 例えば,将棋。 将棋は,AI がいちばんになった。 今日プロ棋士の試合は,「 AI が選ぶ手の通りに指せているか」を観賞するものになっている。 「AI が見過ごしている手を指す」は,いまの AI に対しては無い。 AI は,すべての場合を解析しているからである。 ひとは,芸術的創作は人間ならではだと思っている。 しかしこれも,制作がデジタル制作に置き換わるものであれば,AI に凌駕されることになる。 <音楽ソフトを使い,音源データの打ち込みと編集で楽曲を作成>,<描画ソフトで絵画作成>は,AI が簡単にやってのけることになる。 オリジナリティを絞り出しても,AI にたちまちパクられるだけである。 新聞も,「デジタルで制作できてしまうものなので,早晩 AI に凌駕される」となるものである。 記者の足は,デジタルに換えられない? それは,デジタル通信に換えられる。 そして新聞には,根本的な弱みがある。 それは,「新聞が終わるのは拙い」となるものを持っていないことである。 ひとは,新聞が週刊誌のようになったら拙いと思うだろう。 しかし,新聞は週刊誌と同じである。 ひとを煽動してナンボという生業である。 不都合な情報は隠す。 情報の裏をとるために十分なデータに当たる,ということはしない。 「新型コロナ」や「CO2排出地球温暖化」の報道で見ての通りである。 よって,<ひとを煽動してナンボの動機づけがされていない AI>によるニュース報道サイトがネット上に実現されたら,ひとはこれをニュースメディアにすることになる。 新聞は,捨てられる。 新聞は,いまのネットニュースがまだ新聞記事の寄せ集めのレベルなので,なんとか続けていられる。 しかしいまは,上は国から下は個人まで,みながネットに情報を発信する。 AI は,この情報の海から報道ネタをピックアップすることができる。 そして,その莫大な情報を評価・選別できる能力は,既に人間を超えているのである。 もちろん「腐っても人間」の考え方もある。 ここは好き好きである。 しかし,人間至上の考えをもつ/この考えにすがりつく者たちの人間観は,「腐っても人間」ではない。 この点は注意しなければならない。 人間至上の考えをもつ/この考えにすがりつく者たちは,思い上がるのである。 そして,ひとを誘導しようとする。 捨てられつつある新聞は,まさにこれなのである。 |