Up おわりに 作成: 2018-07-01
更新: 2018-07-01


    ひとは,集団の中で生きる。
    集団は,<自己組織化する系>のダイナミクスを現す。
    このダイナミクスの内容として,個は規範で制御されるものになる。

    規範は,「規範に従う者が良い者である」という趣きになる。
    規範は,個に「進歩」の形を与える。
    こうして,集団は個に対し「進歩主義」として立つ。


    規範は,個を抑圧する。
    抑圧される個は,自由を想う。
    このときの自由は,進歩主義からの自由である。
    ──逆に,進歩主義は自由の抑圧になる。

    学びは,自由な行為である。
    したがって,集団は進歩主義の規範を以て,学びを制御することになる。
    わかりやすい例が,「倫理行動規範」である。


    ここに,この制御に馴染めない者,集団がおかしな学びの(てい)に偏していることに不満をもつ者が,現れる。
    この者は,進歩主義批判の論を立てたくなる。

    進歩主義批判の論は,たいてい下手をしてしまう。
    馬鹿なことを言ってしまうのである。
    即ち,「大衆」とか「オリジナル」の類の,内容の無いことばを言ってしまう。

    そこで,「進歩主義批判の定石」「進歩主義批判の作法」の考えをもつことが,だいじとなる。
    本論考は,「作法」として
      《「もののあはれ」を採り,「やまとたましひ」を却ける》
    を示したものである。

    論考は,本居宣長の漢才批判を引く形で,構成した。
    この体裁にしたのは,本居宣長をPRしたい気持ちからである。

      本居宣長の威を借りるためには,本居宣長のPRから始めねばならない。
      本居宣長については,いろいろと誤解・曲解──特にイデオロギー由来の誤解・曲解──が有るからである。