Up 要件 : 教員の側の「数学の(ココロ)」陶冶 作成: 2018-06-25
更新: 2018-06-25


      本居宣長『源氏物語玉の小櫛』一の巻
    手習とは、心にうかぶ事を、何となくかきすさ()をいふ、
    さて此、何事にまれいみしと思ふことの、心にこめて過しがたきすぢは、今の世の、何の深き心もなき、大かたの人にても、同じことにて、たとへば世にめづらしくあやしき事などを、見聞たる時は、わが身にかゝらぬ事にてだに、心のうちに、あやしきことかな、めづらしき事かなと、思ひてのみはやみがたくて、かならずはやく人にかたりきかせまほしく思ふもの也、
    さるはかたりきかせたりとて、我にも人にも、何のやくもなけれども、然すれば、おのづから心のはるゝは、人の(ココロ)のおのづからの事にて、歌といふ物のよまるゝもこれ也

    「数学教師/数学教育学者」は,「人の情のおのづからの事」としての「数学」がわからねば,本来務まらないものである。
    翻って,数学教師/数学教育学者は,これをわかるための修行を負う者である。

    修行は,「数学書を読み,心を数学になし,そして (下手でも) 自ら数学をつくる」である。

      本居宣長『源氏物語玉の小櫛』二の巻
    さて此物語をつねによみて、心を物語の中の人々の世の中になして、歌よむときは、 おのづから古のみやびやかなる(ココロ)のうつりて、()の人の情とは、はるかにまさりて、同じき月花を見たる趣も、こよなくあはれ深かるべし、
    さるを近き世の人は、古の歌をまねぶとはすれど、古人の世中をしらず、その(ココロ)にうとくして、たゞおのが今の心にまかせて、よむ故に、古にたがひて、(アヤ)しげなることのみ、おほくいでくるぞかし

      本居宣長『古事記伝』「古記典等総論」
    (タゞ)いく(タビ)も古語を考へ(アキ)らめて、古ヘのてぶりをよく知こそ、学問(モノマナビ)(ムネ)とは有べかりけれ。
    凡て人のありさま心ばへは、言語(モノイヒ)のさまもて、おしはからるゝ物にしあれば、上代の萬の事も、そのかみの言語をよく(アキ)らめさとりてこそ、知べき物なりけれ。

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