Up 数学が現れる所 作成: 2018-06-29
更新: 2018-06-29


    数学の授業を受ける生徒は,何を授業されているのかさっぱりわからない。
    教師が,学習主題が「何ものなのか・ナンボのものなのか」を教えないからである。
    教師が「何ものなのか・ナンボのものなのか」を教えないのは,教えねばならないのはこのことだということを知らないからである。
    知らないのは,自分が受けてきた授業も,自分がいまやっている授業と同じだったからである。

    「何ものなのか・ナンボのものなのか」を示すものは,その数学が現れる所である。
    その所は?
    物理が説かれる所である。

    「自然という書物は数学の言語で書かれている」は,ガリレオの言である。
    数学は,自然という書物の中にあるものである。
    数学が現れる所は,自然という書物である。
    そこで,数学の授業は,自然という書物を読む授業である。

    現前の数学の授業には,自然がない。
    文字だけが浮遊しているのである。
    こんなんで数学の教授/学習が成るわけがない。


    《自然という書物が数学の言語で書かれているので,自然をわかるために数学を勉強する》──数学の勉強とは,このようなものである。
    本居宣長は,(いにしえ)という書物が古言(ふること)で書かれているので,古をわかるために古言を勉強する者である。
    よって,本居宣長が説く「勉強」は,数学の勉強と同型になる。

      本居宣長『宇比山踏』
    語釈とは、もろもろの言の、然云本の意を考へて、(トク)をいふ、‥‥ こは学者の、たれもまづしらまほしがることなれども、これにさのみ深く心をもちふべきにはあらず、‥‥ こは大かたよき考へは出来がたきものにて、まづはいかなることとも、しりがたきわざなるが、しひてしらでも、事かくことなく、しりてもさのみ益なし、
    されば諸の言は、その然云本の意を考ヘんよりは、古人の用ひたる所をよく考へて、云々(シカシカ)の言は、云々の意に用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし、
    言の用ひたる意をしらでは、其所の文意聞えがたく、又みづから物を書にも、言の用ひやうたがふこと也、
    然るを今の世古学の輩、ひたすら然云本の意をしらんことをのみ心がけて、用る意をば、なほざりにする故に、書をも解し誤り、みづからの歌文も、言の意用ひざまたがひて、あらぬひがこと多きぞかし、