Up 数学のこころ 作成: 2018-06-30
更新: 2018-07-01


    数学を勉強することは,数学のこころがわかり,数学のこころになってみることである。

      『古事記伝』「書紀の(あげつら)ひ」
    漢籍心(カラブミゴコロ)を清く洗ひ(サリ)て、よく思へば、天地はただ天地、男女(メヲ)はただ男女、火水(ヒミヅ)はただ火水んて、おのおのその性質情状(アルカタチ)はあれども、そはみな神の御所為(ミシワザ)にして、然るゆゑのことわりは、いともいとも奇霊(クスシ)微妙(タヘ)なる物にしあれば、さらに人のよく測知(ハカリシル)べききにはあらず。
    然るを漢国人の癖として、己がさかしら心をもて、萬の理を(シヒ)て考へ求めて、此陰陽といふ名を作リ設て、天地万物みな、此理の外なきが如く(トキ)なせるものなり。

    本居宣長はこのように言うが,「数学のこころ」は「もののあはれをしる」にあり,かつ「萬の理を強て考へ求める」にある。

    本居宣長は,萬の理を強て考へ求める心を「己がさかしら心」に含めてしまう。
    そこで,科学に蓋をする格好になる。
    これは,学術に蓋をすることになるから,自家撞着になる。
    漢才批判のこの部分は,宣長のしくじりである。

    要点は,「萬の理を強て考へ求める」には,「もののあはれをしる」と「己がさかしら心」の二つの様相がある (入り混じる),ということである。


    数学の「もののあはれをしる」は,「ものが<自己組織化する系>であることをしる」である。
    「奇霊く微妙なる」は,自己組織化のダイナミクスの「奇霊く微妙なる」である。

    なぜこう言えるか?
    数学が科学の言語であるわけを,考えてみよ。
    科学は,自然を<自己組織化する系>──「自動機械」──に解釈する営みである。
    そこで,「自動」の記述に適う言語は?となる。
    そして,数学だ!となる。
    「自動」と「計算」が対応するわけである。