Up 「もののあはれ」を,採る 作成: 2018-06-10
更新: 2018-06-26


    本居宣長は,古言を研究し,つぎの主張をする者である:
     「 万葉集,源氏物語,古事記は,それをつくった心──古人の心──に即して読め」
     「 いまの学者は儒仏に傾倒した心でこれらを注釈している──それはとんだ料簡違いだ」

    この主張は,まっとうである。
    実際,これは,人類学や動物行動学が立てている原則──「対象の解釈に自分の規準を持ち込まないこと」──と同じである。

    彼の探求の方法論は
      「○○を理解するためには,(下手でも)自ら○○を実践する」
    であり,これも道理である。


      本居宣長『排蘆小船』
    ヨキ歌ヲヨマムト思フ心ヨリ、詞ヲエラヒ意ヲマフケテカザルユヘニ、實ヲウシナフ事アル也、
    ツネノ言語サへ思フトヲリアリノマゝニハイハヌモノ也、
    況ヤ歌ハホトヨクヘウシオモシロクヨクヨマムトスルユへ、我實心トタカフ事ハアルベキ也、
    ソノタガフ所モスナハチ實情也、
    其故ハ、心ニハ悪心アレトモ善心ノ歌ヲヨマムト思フテヨム歌ハ、イツハリナレトモ、ソノ善心ヲヨマムト()()心ニ、イツハリハナキ也、
    スナハチ實情也、
    タトヘハ花ヲミテ、サノミオモシロカラネト、歌ノナラヒナレハ、随分面白ク思フヤウニヨム、面白ト()()偽リナレド、面白キヤウニヨマムト()()心ハ實情也、
    シカレハ歌ト云モノハ、ミナ實情ヨリ出ル也、
    ヨクヨマムトスルモ實情也、
    ヨクヨマムトオモヘト、ヨクヨメバ實情ヲウシナフトテ、ワルケレトアリノマゝニヨム、コレ、ヨクヨマムト()()心ニタカフテ偽也、 サレトモ、實情ヲウシナフ故ニ、アリノマゝニヨマムト()()モ、又賓情也、

      本居宣長『排蘆小船』
    題ヲトリテ、マヅ情ヲモトメ、サテ詞ヲトゝノフル也、
    コノ時ニアタツテ、情ヲモトムル事、(サキ)ニアレトモ、ジタイ情ハモトムルモノニハアラズ、
    情ハ自然也、
    タゞ求ルハ詞也、
    コノ故ニ、詞ヲトゝノフルガ第一也トハ云也、

      本居宣長『石上私淑言』
    物のあはれにたへぬところよりほころび出て,おのづからあやある詞が,哥の根本にして眞の哥也。


    本居宣長は,「人情」の肯定を以て,儒教・仏教が立てる「善悪・倫理」を退ける。
    「善悪・倫理」を退けるのに「人情」を以てする実践行為を, 「文学」と謂う。
    本居宣長の「人情」論は,「文学」本質論になっている。

      本居宣長『排蘆小船(あしわけおぶね)
    歌ノ本体、政治ヲタスクルタメニモアラズ、身ヲオサムル為ニモアラズ、
    夕ヽ心ニ思フ事ヲイフヨリ外ナシ、
    其内ニ 政ノタスケトナル歌モアルベシ、身ノイマシメトナル歌モアルベシ、又国家ノ害トモナルベシ、身ノワザハイトモナルベシ、
    ミナ其人ノ心ニヨリ出来ル歌ニヨルヘシ、
    悪事ニモ用ヒラレ、善事ニモ用ヒラレ、興ニモ愁ニモ思ニモ喜ニモ怒ニモ、何事ニモ用ヒラル也、
    其心ノアラハル所ニシテ、カツソノ詞幽玄ナレハ 鬼神モコレニ感スル也
     ‥‥
    夕ヽ善悪教誡ノ事ニカヽハラズ、一時ノ意ヲノフル歌多キハ、世人ノ情、楽ミヲハネガヒ、苦ミヲハイトヒ、オモシロキ事ハタレモオモシロク、カナシキ事ハタレモカナシキモノナレハ、只ソノ意ニシタカフテヨムガ歌ノ道也

      本居宣長『石上私淑言』
    古今序に,やまと哥は,ひとの心をたねとして,萬の言のはとぞなれりけるとある。
    此心といふが,則,物のあはれをしる心也
     ‥‥
    事にふれて其うれしくかなしき事の心をわきまへしるを,物のあはれをしるといふなり。
    其事の心をしらぬ時は,うれしき事もなくかなしき事もなければ,心に思ふ事なし。
    思ふ事なくては哥はいでこぬ也。
    しかるを生としいける物は,みな程々につけて事の心をわきまへしる故に,うれしき事も有かなしき事もある故に,哥ある也。

      本居宣長『紫文要領』
    さて其の歌物語の中にていふよしあしとは、いかなる事ぞといふに、かの尋常の儒仏の道にていふよしあしと格別のたがひあるにもあらねども、おのづからかはる所あるは、まづ儒仏は人を教へみちびく道なれば、人情にたがひて、きびしくいましむる事もまじりて、人の情こころのまゝにおこなふ事をば悪とし、情をおさへてつとむる事を善とする事多し。
    物語はさやうの教誡の書にあらねば、儒仏にいふ善悪はあづからぬ事にて、たゞよしあしとする所は、人情にかなふとかなはぬとのわかちなり。
    その人情の中には、かの儒仏の道にかなわぬ事有る故に、儒仏の道にいふよしあしとかはる也。
    かやうにいはゞ、たゞ善悪にかゝはらず、人情にしたがふをよしとして、人にもさやうに教ゆるかと思ふ人あるべけれど、さにはあらず。
    右にいふごとく教誡の道にあらざる故に、人にそれを教ゆるといふ事にはあらず。
    教誡の心をはなれて見るべし。
    人情にしたがふとて、己おのが思ふまゝにおこなふとにはあらず、たゞ人情の有りのまゝを書きしるして、見る人に人の情はかくのごとき物ぞといふ事をしらする也。
    是れ物の哀れをしらする也。
    さてその人の情のやうをみて、それにしたがふをよしとす。
    是れ物の哀れをしるといふ物なり。
    人の哀れなる事を見ては哀れと思ひ、人のよろこぶを聞きては共によろこぶ、是れすははち人情にかなふ也。 物の哀れをしる也。
    人情にかなはず物の哀れをしらぬ人は、人のかなしみを見ても何とも思はず、人のうれへを聞きても何とも思はぬもの也。
    かやうの人をあしゝとし、かの物の哀れを見しる人をよしとする也。
    たとへば物語の中に、いたりてあはれなる事のあらんに、かたはらなる人これを見聞きて、一人はそれに感じてあはれに思ひ、一人は何とも思はずあらん。その感じて哀れがる人が人情にかなひて物の哀れをしる人也。何とも思はぬ人が人情にかなはずあしき人也。
    されば其の物語を今よむ人も、その哀れなる事を見て哀れと思ふは、人情にかなふ人也。何とも思はぬは物の哀れをしらぬ人也。
    こゝにおきてかの物語の中の一人、物の哀れをしる人をよしといひ、物の哀れをしらぬ一人をあしゝとするをみて、かのよむ人の物の哀れをしらぬも、(おの)があしきをしりて、自然と物のあはれをしるやうになる也。
    これすなはち物語は、物の哀れを書きしるしてよむ人に物の哀れをしらするといふ物也。
    されば物語は教誡の書にはあらねども、しひて教誡といはゞ、儒仏のいはゆる教誡にはあらで、物の哀れをしれと教ゆる教誡といふべし。

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