「日本型」は,「日本発」との対比で考えるべし。
日本の先端技術は,「日本発」であり,「日本型」と呼ぶものではない。
「日本型」と呼ぶときは,<マス mass>が想われている。
実際,「日本型」をしぜんに想うのは,<俗>である。
逆に,<俗>に対して「日本型」を言えないようでは,「日本型」の立論に望みはない。
では,<俗>に対し「日本型」を想うとき,<俗>として何を見ているのか?
実に,これが問題である。
<俗>の意味は,自明ではない。
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小林秀雄 (1977),新潮文庫版 上, pp.123-125
仁斎によって、大胆に打出された考え,
「卑ケレパ則チ自ラ実ナリ、高ケレパ必ズ虚ナリ、
故ニ学問ハ卑近ヲ厭フコトナシ。
卑近ヲ忽ニスル者ハ、道ヲ識ル者ニ非ザルナリ」
(童子問』上)
「人ノ外ニ道ナシ」、或は進んで「俗ノ外ニ道ナシ」とまで言う「童子問」を一貫したこの考えは、徂徠によってしっかりと受止められて、徹底化された。
‥‥
宣長は、‥‥ 徂徠の見解の、言わば最後の一つ手前のものまでは、悉く採ってこれをわが物とした。という事は、最後のものは、徂徠自身の信念であり、自分のものではない事を、はっきり知っていたという事であろう。‥‥ 徂徠という豪傑の姿は、徂徠とは全く別途を行った宣長に、却って直かに映じていた、と想像してみてもいいように思う。
‥‥
卑近なるもの、人間らしいもの、俗なるものに、道を求めなければならないとは、宣長にとっては、安心のいく、尤もな考え方ではなかった。
俗なるものは、自分にとっては、現実とは何かと問われている事であった。
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「日本文化」を言う者は,たいていこの根本的問いに思考停止している。
そして「日本型」と「日本発」を一緒にしてしまうみたいになるわけである。
さて,<俗>は,「意味が自明でないもの」ではない。
<俗>は,幻想である。
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