Up 作品終結 作成: 2019-06-28
更新: 2019-06-28


    生物は, 《<わたし>を残す》を自己目的化した存在である。
    人間もこれである。
    これ以上でも以下でもない。

    生物一般の《<わたし>を残す》は生殖だが,人間はこれに<作品>を加えた。
    そして<作品>を加えることで,年をとっても現役でいることが可能になった。

    一方,年寄りの「現役でいる」は,たいてい勘違いである。
    そして年をとるとは,この勘違いに気づけなくなることである。
    そしていまの時代,年をとるとはどこまでも長生きすることであり,そしてこれは痴呆化することである。
    ここに,「いい加減のところで死ぬ」がひとの課題になってくる。

    ひとは「いい加減のところで死ぬ」の「死」を,<迎える>の相で想う。
    しかし,死は不意に来る。
    そこで,死が不意に来てもよいようにしておくことを考える。
    こうして「常住死身」が課題になる。

    「常住死身」は,煩悩を無くせた状態である。
    煩悩は,《<わたし>を残す》──<作品>──である。
    よって,「常住死身」は,作品を終結できた状態である。

      「無我」だの「我執を捨てる」だのは,空論である。
      繰り返すが,生物は《<わたし>を残す》を自己目的化した存在であり,人間もこれである。
      かくして,「常住死身」の形は「作品の終結」であるのみ。


    そこで,「しかし作品の終結はあるのか?」という問題になる。
    ここに,年寄りの<弱る>が効いてくるのである。
    弱ることによって,作品はやっても堂々巡りの(てい)になる。
    この堂々巡りを見て,もういいか── "No more than this" ──となるわけである。

    翻って,堂々巡りに気づけることが肝心になる。
    痴呆化に先に行かれてしまうと,これが成らなくなる。
    よって,作品を終結させる作業はのんびりできないものになる。
    これが「常住死心」の実践形である。