Up はじめに 作成: 2019-06-23
更新: 2019-06-23


    生き物には盛りの時期がある。
    これの後は,自壊と死である。
    この死には,つぎの二つの場合がある。
    1. 自壊から死へが,直ぐ
      (例:産卵後の鮭の死)
    2. 自壊が短時間でなく,その間の弱体において他の生き物の餌食になる

    人は後者の場合であり,行き倒れて狼に食われるとか,老人がウィルス性肺炎やO157で死にやすいとかは,この例である。
    しかしここに,延命技術の進歩があって,簡単に死なないようになった。
    人はずっと長生きできるようになった。


    自壊はカラダの機能劣化の進行ことであるが,これには脳機能劣化の進行が含まれる。
    長生きするとは,脳機能劣化の進行を生きるということである。

    脳機能劣化を,今日は「認知症」と呼んでいる。
    これは,直接的な物言いを憚った表現である。
    直接的な物言いは,痴呆化ないし白痴化である。

    「白痴」のことばは,既に辞書から抹消されている。
    「痴呆」のことばも,じきに辞書から抹消されることになる。
    いまの社会は,ことば狩りが正義になるからである。

    「認知症」のことばは,言うまでもなくミスリーディングである。
    長生きによる脳機能劣化は,<健常>の逆の<障害>ではないからである。
    長生きによる脳機能劣化は,長生きのカラダの<健常>である。

    そこで本論考は,<障害>用語の「認知症」のことばを却け,「痴呆」を<健常>用語として復権させこれをを用いるとする。
    これは世間に反抗する(てい)になってしまうが,反抗は本論考の趣意ではない。


    さて,ひとは,自分の将来が痴呆で生き長らうになることを願わない。
    「願わない」はまだ消極的な物言いである。
    「厭う」と言うのが近い。
    しかし現代社会では,ひとは痴呆で生き長うになっていく。
    生き長うが断たれる契機が無いからである。

    この現前に対し幸福云々を論じるのは,ナンセンスである。
    実際それは,「ゾンビは幸福か不幸か」を論じるようなものである。
    この現前を論じる仕方は,生態学である。

    系は自己組織化する。
    一つの流れには,これに反逆する流れが起こる。
    <痴呆で生き長らう>の流れが安定に見える時は,これの撹乱が起きる時である。
    その撹乱の(てい)は,「自決死」ということになる。
    本論考は,これを考えてみようとする。