Up 「有時」の科学は進化論 作成: 2024-07-03
更新: 2024-07-03


    情報氾濫の時代は,お助け詐欺広告が喧しい。
    特に,治療・薬の広告。
    新聞は連日,怪しげな薬や治療の広告が満載。
    ひとは病気は治療や薬で治すものだと洗脳されているので,この手の広告は幅を効かす一方となる。
    洗脳したのは医事・薬事産業だが,洗脳が上首尾に進んだことで大繁栄している。

    病気は,生活習慣病である。
    たとえば坐骨神経痛は,坐骨まわりを損なう生活行動──立て膝で立つとか,高い段を踏み上がるとか──をしてしまっているのである。
    病気を治す方法は,生活習慣を改めることである。
    生活習慣をそのままにして,治療・薬で治そうとしたって駄目である。

    医事・薬事産業は,「病気は生活習慣病」がひとに知られないことを願う。
    治療・薬に頼ってくれないと,商売にならない。
    病気は,生じるものにしなければならない。


    出来事は,連続している。
    「生じる」ということは,無い。
    逆も真である。
    出来事は連続しているから,「滅する」ということもない。

    この「不生不滅」は,仏教の存在論である。
    道元の「有時」は,「生じる・滅する」の否定をしっかり教えんとするテクストである。


    道元のように「生じる・滅する」を否定することに執着する者は,どういうタイプの者か。
    お助け詐欺広告に騙される衆生を,見ちゃあいられないとなるタイプの者である。

    このタイプは,ブッダに溯る。
    仏教のもとはブッダの教えであるが,それは出家を勧めるものである。
    ブッダは,世俗に我慢がならない者であった。
    世俗に我慢がならないのは,それが虚偽だからである。
    そしてその虚偽の(もと)に,「生じる・滅する」の虚偽存在論を観たのである。


    「生じる・滅する」を唱える者は,連続が見えない者である。
    連続が見えるとは,物事が進化の相で見えることである。
    物事の次元は「時空 (時間と空間)」である。
    存在するのは物事であるから,時間を離れて空間は無く,空間を離れて時間は無い。

    道元の「有時」は,「物事は時空 (時間と空間)」とつぎの対応になる:
      有 = 物事
      時 = 時間と空間
    つぎの対応ではない:
      有 = 空間
      時 = 時間
    このように,道元は「時」をことば足らずで使う。
    『有時』には「誰某は時である」の言い回しが出てくるが,それは「物事である誰某は時空 (時間と空間)」をことば足らずで言っているのである


    「有時」の科学は,進化論である。
    仏教用語の「因縁」は,進化の時々刻々のダイナミクスを指している。
    「有時」は「因縁」と合わさって,進化論になる。

    「有時」の道元は科学の論理的で平易な物言いとは無縁なところにいるので,ひじょうに不自由な物言いに終始する。
    「有時」の言いたいことは,進化論に尽くされている。
    ただし,不自由な物言いは,ひとが難解・高尚と受け取り,ありがたがってくれる,というメリットがある。


    「病気は生活習慣病」の「生活習慣」は,個体を超えて系統の生活習慣に延長する。
    この科学は,進化論のうちの遺伝学である。
    個体に現れる「系統の生活習慣病」は,「体質による病気」と称しているものがこれに当たる。

    現代は,医事・薬事産業が,生活習慣病を導くものの中心にいる。
    現代人はアレルギー症が多いが,これは医事・薬事産業に誘導された生活習慣病である。
    医事・薬事産業はマスクを習慣にすることを良しと説いているが,マスクを習慣にした者は外気を直接吸うことができなくなる。 そして,外気を直接吸うとアレルギー反応を起こす体質に至る。
    実際,医事・薬事産業が繁栄する社会は,人間が脆弱化する社会である。


    道元の「有時」を「生活習慣病」に適用したこの論は,定めしひとに違和感を覚えさせる。
    しかしその違和感は,存在論を誤解しているためである。
    即ち,存在論は形而上的で,それを理解する思考様式は「悟り」だと。
    これは間違いである。
    形而上的になってしまうのは,書き手がことば使いを知らないためであり,その効果である。

    実際,存在論は,科学の内容すべてがこれである。
    今日,哲学の存在論は読むまでもない。
    科学を勉強すべし。
    哲学の認識論も,読むまでもない。
    AIの認知・自己意識を観察すべし。