Up テクスト「有時」のモチーフ 作成: 2017-10-06
更新: 2017-10-06


    「有時」には,3つのモチーフがある。

    モチーフその1
    一つは,仏教の思想の核心である「無常」の説明である。
    禅宗は,「無常」を「現成」「常住」に転じることを特徴とする。
    「有時」は,<無常──現成・常住に通じるもの>の,説明理論になっている。

    「無常」「現成」「常住」は,現を納得するために現を合理化する概念である。
    ここで,無常を現成・常住の必要条件にする。
    《現成・常住であるためには,無常でなければならない》とするのである。

    この考えは,「新陳代謝」──物の例としては「川」──を考えると,了解しやすい。
    実際,「有時」の考えである《有は,その都度切り替わる》は,「新陳代謝」の表現である。

     註. 「新陳代謝」に相当する概念で複雑系科学にあるのは, 「散逸 dissipation 構造」。


    モチーフその2
    道元は,「己のうちに諸祖がある」を定立しようとする者である。
    テクスト「有時」は,この命題定立の作業である。

    このときの「有時」の論は,アクロバティックである。
    有り体に言えば,荒唐無稽である。
    (但し,この荒唐無稽は,禅宗の文化として理解されるものである。──『臨済録』を見よ。)

    《有は,その都度切り替わる》によって別々のものになった有は,つぎに「時間的前後」が無くされる。
    こうして,別々の有は,すべてが現在 (「而今」) に並ぶ。
    同時にこの操作は,「有る時のわたしは‥‥‥」の「わたし」を無くすものになっている。 ──別々の有になった「有る時のわたしは‥‥‥」の「わたし」は,別々のものだからである。

    この非人称になった別々の有は,<有全て>でまとまるしかない。
    そしてこのときは,諸祖の「有る時は」とわたしの「有る時は」が一緒になる。
    論はここから,強引に「己のうちに諸祖がある」にもっていく。

    《ことばの本来的曖昧さを利用して,存在・人称のカテゴリーを滅茶苦茶にする》が,このときの方法である。
    しかし,道元を有り難がることを最初から構えにして「わたしの中に諸祖がいる」を聞く者は,深遠な真理が述べられたことばとしてこれを受け取ることになる。


    モチーフその3
    「有時」は,修行覚悟・修行指南のテクストである。
    「己のうちに諸祖がある」の命題を立てたのも,結局このためである。
    実際,「《己のうちに諸祖がある》を以て修行せよ」が,覚悟・指南である。
     「 三頭八臂も,すなはちわが有時にて一經す。彼方にあるににたれども而今なり。
    丈六八尺も,すなはちわが有時にて一經す。彼處にあるににたれども而今なり。」
     「 法しばらく凡夫を因縁せるのみなり。
    この時この有は法にあらずと學するがゆゑに,丈六金身はわれにあらずと認ずるなり。」
     「 生も時なり,佛も時なり。」
     「 この時,三頭八臂にて盡界を證し,丈六金身にて盡界を證す。
    それ盡界をもて盡界を界盡するを,究盡するとはいふなり。
    丈六金身をもて丈六金身するを,發心修行菩提涅槃と現成する,すなはち有なり,時なり。」