Up 「有時」存在論の時代性/限界──「不可逆性」の概念が無い 作成: 2017-10-06
更新: 2017-10-06


    「有時」のテクストに対し,存在論としての時代性/限界を取り上げて言うのは,野暮なことである。
    しかし,この場合の時代性/限界を的確に指せるのはある程度の経験値があってのことであるから,やはり改めて押さえておくことにする。


    「有時」の存在論は,「有る時は‥‥‥」を別々の有にして,現在 (「而今」) に同列に並べるというものである。
    しかし,「有る時は‥‥‥」は,これに到る経緯の端点である。
    端点は,単独に切り離せない。
    自明のようであるが,科学史はこれが自明でないことを教える。
    実際,「経緯の端点」の見方を得るには,ダーウィンの進化論や熱力学を要したのである。

    では,「有る時は‥‥‥」を<累積>ないし<入れ籠>のモデルで考えれば,妥当な論になるか?
    そうもいかない。
    一つの「有る時は‥‥‥」に到る経緯は,「有る時は‥‥‥」の累積・入れ籠ではないからである。
    そもそも,「「有る時は‥‥‥」から「有る時は‥‥‥」への溯行」の操作が立たない──したがって概念も立たない。
    「溯行」の概念が立たないこと,これを「不可逆性」と謂う。

      註 : 「進化」は,不可逆的である。
    「ヒトの祖先」みたいな言い方をするが,実際には「祖先」は存在しない。
    ヒト種の経緯は,いろんなもののグチャグチャな交錯である。
    この「いろんなもののグチャグチャな交錯」の中から一つの何かを「祖先」として立てることはできない──立てようとすること自体,無意味である。


    「有時」の存在論のナイーブさは,「不可逆性」の概念の無いことがおおもとである。