Up | 「認識論」の定位 | 作成: 2015-03-10 更新: 2015-03-10 |
ただし,これは「生命」が解明されたということではなく,「生命」の不思議が「分子マシン」の不思議に降ろされたということである。 生体は,構造も機能も圧倒的に複雑で,かつ絶妙に合目的である。 探求は,このことを段々に明らかにする。 しかし,これを実現している動因連鎖のプロセスがわからない。 「分子マシン」の分子の動作は,「傾向性の発現」としてとらえることになる。 ここで「傾向性」は,「if ‥‥ then ‥‥」である。 「分子マシン」の分子の動作の「if ‥‥ then ‥‥」は,「認識」に見えてくる。 実際,「認識」と称しているものは,結局,「if ‥‥ then ‥‥」である。 ──人の認識の「if ‥‥ then ‥‥」と分子の動作の「if ‥‥ then ‥‥」の間に区別を立てることはできない。 平らな板の上に小石をのせる。 板を傾けると,小石がころがる。 この「if ‥‥ then ‥‥」現象で,小石を「主体」にしてやる。 すると,小石は,板の傾斜を認識して,ころがったことになる。 小石は,「認識主体」である。 「if ‥‥ then ‥‥」の記述は,「認識形式」の記述になる。 小石は,この認識形式を用いて,ころがるという動作に及んだことになる。 この論が滑稽に見えるとしたら,もともと「認識論」というものが滑稽なのである。 「滑稽」の内容は,論の過剰性である。 「認識論」は,過剰な論なのである。 「if ‥‥ then ‥‥」の論で収めておく方がよく見えてくるものを,「認識形式」のようなものを持ち出して,わざわざ見えなくする。とんちんかんな話を紡ぎ出す。 「認識論」という過剰な論をつくらせるものは,思想の一つのクセである。 そのクセは,「主体」を立てるというものである。 西洋哲学は,これを主流にしてやってきた。 |