Up サンスクリット原本和訳 作成: 2018-04-15
更新: 2018-04-15


    中村元・紀野一義[訳註]『般若心経・金剛般若経』, 岩波書店, 1960. pp.189-196
    に載っている原文と訳文を,対訳表の形に編集:
namas sarvajñāya. (全知者である覚った人に礼したてまつる)
evaṃ mayā śrutam. このようにわたしは聞いた。
ekasmin samaye bhagavān Rājagṛrhe viharati sma Gṛdhrakuṭe parvate mahatā bhikṣusaṃghena sārdhaṃ mahatā ca bodhisattvasaṃghena. あるとき世尊は、多くの修行僧、多くの求道者とともにラージャグリハ(王舎城)のグリドゥフラクー山(霊鷲山)に在した。
tena khalu samayena bhagavān GambhIrāvasambodhaṃ nāma samādhiṃ samāpannaḥ. そのときに世尊は、深遠なさとりと名づけられる瞑想に入られた。
tena ca samayenāryāvalokitesvaro bodhisattvo mahāsattvo gaṃbhIrāyām prajināpāramitāyāṃ caryāṃ caramāṇa evaṃ vyavalokayati sma. そのとき、すぐれた人、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラは、深遠な智慧の完成を実践しつつあったときに、見きわめた、──存在するものには五つの構成要素がある──と。
paṃca skaṃdhās tāṃś ca svabhāvaśunyān vyavalokayati. しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。
athāyuṣmāñ Chāriputro buddhānubhāvenāryāvalokiteśvaraṃ bodhisattvam etad avocat. そのとき、シャーリプトラ長老は、仏の力を承けて、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラにこのように言った。
yaḥ kaścit kulaputro gaṃbhlrāyāṃ prajñāpāramitāyāṃ caryāṃ cartukāmaḥ kathaṃ śikṣitavyaḥ. 「もしも誰か或る立派な若者が深遠な智慧の完成を実践したいと願ったときには、どのように学んだらよいであろうか」と。
evam ukta āryāvalokiteśvaro bodhisattvo mahāsattva āyuṣmaṃtaṃ Śariputram etad avocat. こう言われたときに、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラは長老シャーリプトラに次のように言った。
yah kaścic Chāriputra kulaputro vā kuladuhitā vā gambhlrāyāṃ prajñā-pāramitāyāṃ caryāṃ cartukāmas tenaivaṃ vyavalokayitavyaṃ. 「シャーリプトラよ、もしも立派な若者や立派な娘が、深遠な智慧の完成を実践したいと願ったときには、次のように見きわめるべきである──《存在するものには五つの構成要素がある。》と。
pamca skaṃdhās tāṃś ca svabhāvaśunyān samanupaśyati sma. そこでかれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。
rupaṃ śunyatā
śunyataiva rupaṃ.
物質的現象には実体がないのであり、
実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。
rupān na prthak śunyatā
śunyatāyā na prthag rupaṃ.
実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。
また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。
yad rupaṃ sā śunyatā
yā śunyatā tad rupaṃ.
このようにして)、およそ物質的現象というものは、すべて実体がないことである。
およそ実体がないということは、すべて物質的現象なのである。
evaṃ vedanāsaṃjñā-saṃskāra-vijñānāni ca śunyatā. これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。
evaṃ Śāriputra sarvadharmā śunyātalaksaṇā
anutpannā
aniruddhā
amalavimalā
anunā
asaṃpurṇāḥ.
シャーリプトラよ、この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。
生じたということもなく、
滅したということもなく、
汚れたものでもなく、
汚れを離れたものでもなく、
減るということもなく、
増すということもない。
tasmāt tarhi Śāriputra śunyatāyāṃ
na rupaṃ
na vedanā
na saṃjñā
na samskārā
na vijñānaṃ.
それゆえに、シャーリプトラよ、実体がないという立場においては、
物質的現象もなく、
感覚もなく、
表象もなく、
意志もなく、
知識もない。
na cakṣur
na śrotraṃ
na ghrāṇaṃ
na jihvā
na kāyo
na mano
na rupaṃ
na śabdo
na gaṃdho
na raso
na spraṣṭavyaṃ
na dharmālh.
眼もなく、
耳もなく、
鼻もなく、
舌もなく、
身体もなく、
心もなく、
かたちもなく、
声もなく、
香りもなく、
味もなく、
触れられる対象もなく、
心の対象もない。
na cakṣurdhātur yāvan
na manodhātur
na dharmadhātur
na manovijñānadhātuḥ.
眼の領域もなく、乃至、
意識の領域もなく、
心の対象の領域もなく、
意識の識別の領域もない。
na vidyā
nāvidyā
na kṣayo yāvan
na jarāmaraṇaṃ
na jarāmaraṇakṣayaḥ.
さとりもなければ、
迷いもなく、
さとりがなくなることもなければ、迷いがなくなることもない。
かくて、老いも死もなく、
老いと死がなくなることもないというにいたるのである。
na duhkhasamudaya-nirodhamārgā
na jñānaṃ
na prāptir
nāprāptilḥ.
苦しみも、苦しみの原因も、苦しみをなくすことも、苦しみをなくす道もない。
知ることもなく、
得るところもない。
得ないということもない。
tasmāc Chāriputra aprāptitvena bodhisattvānāṃ prajñāpāramitām āśritya viharaty acittāvaraṇaḥ それ故に、シャーリプトラよ、得るということがないから、求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。
cittāvaraṇanāstitvad atrasto viparyāsātikrāṃto nisthanirvāṇaḥ. 心を覆うものがないから、恐れがなく、顛倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。
tryadhvavyavasthitā sarvabuddhāḥ prajñāpāramitām āśrityānuttarāṃ samyak-saṃbodhim abhisambuddhāḥ. 過去、現在、未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめを覚り得られた。
tasmāj jñātavyaḥ prajñāpāramitāmahāmaṃtro mahāvidyāmaṃtro 'nuttaramaṃtro 'samasamamaṃtraḥ sarvaduḥkhapraśamana-maṃtraḥ satyam amithyatvāt prajñāpāramitāyām ukto maṃtraḥ, tadyathā, それゆえに人は知るべきである。
智慧の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮める真言であり、偽りがないから真実であると。
その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。
gate gate pāragate pārasaṃg ate bodhi svāhā, 往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。
evaṃ Śāriputra gaṃbhlrāyāṃ prajñāpāramitāyāṃ caryāyāṃ śikṣitavyaṃ bodhisattvena. シャーリプトラよ、深遠な智慧の完成を実践するときには、求道者はこのように学ぶベきである」──と。
atha khalu bhagavan tasmat samadher vyutthayaryavalokiteśvarasya bodhisattvasya sadhukaram adat. そのとき、世尊は、かの瞑想より起きて、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラに賛意を表された。
sadhu sadhu kulaputra evam etat kulaputra. 「その通りだ、その通りだ、立派な若者よ、まさにその通りだ、立派な若者よ。
evam etad gaṃbhlrāyāṃ prajñāpāramitāyāṃ caryāṃ cartavyaṃ, yathā tvayā nirdistam anumodyate tathāgatair arhadbhiḥ. 深い智慧の完成を実践するときには、そのように行われなければならないのだ。
あなたによって説かれたその通りに目ざめた人々・尊敬さるべき人々は喜び受け入れるであろう。」と。
idam avocad bhagavān. 世尊はよろこびに満ちた心でこのように言われた。
ānaṃdamana ayuṣman Chāriputra āryāvalokiteśvaraś ca bodhisattvaḥ sā ca sarvāvatI parṣat sadevamānusāsuragaṃdharvaś ca loko bhagavato bhāṣitam abhyanaṃdann iti 長老シャーリプトラ、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラ、一切の会衆、および神々や人間やアスラやガンダルヴァたちを含む世界のものたちは、世尊の言葉に歓喜したのであった。
prajñāpāramitāhṛdayasutraṃ samāptaṃ. ここに、智慧の完成の心という経典を終る。