Up 反商品経済 作成: 2018-10-03
更新: 2018-10-15


    商品経済は,商売になるものが価値になる。
    商売にならないものは,価値にならない──捨てられる。

    商品経済の価値は,敷衍するとおかしなことになる。
    例えば,「長生き」。

    「長生き」は,商売になる。
    そこで,「長生き」は価値になる。
    しかし「長生き」も,「延命」の様相になってくると,「たいがいにせえよ」になってくる。

    保守主義の側からは,つぎのような独特な論を編み出す者も出てくる。

       西部邁 (2000), pp.68-70.
     生命至上主義がニヒリズムを蔓延させる
     生命至上主義は近現代における最大の不道徳といってよい。なぜなら、人間が生き延びることを第一義としてしまうと、法律に違反しなければ、いや違反しても発覚しなければ、延命のためには何をやってもいいという虚無主義が蔓延するからである。生命至上主義は、人命という手段価値にすぎないものを至高の高みに登らせることによって、目的についての一切の価値判断を放棄させる。その意味で、人命はニヒリズムの苗床なのだ。
     そうした生命をめぐって自分の内部から起こってくる不道徳の根を断つには、自分の生命を自分で抹殺してしまうこともありうべし、と構えるほかない。どういう徳義を守るためにどう死ぬべきか、そのことを価値観の最高峰におけば、自分の生命から不道徳が生まれるという人間の最大の弱点を、あらかじめ封殺することができる。
     意図的自死について考え語ることが一般民衆の習わしになるということは、おそらく、ありえないであろう。しかし、少なくとも知識人にあっては、イデオロギー (観念の体系) について語るのが彼らの仕事であるからには、虚無主義によって自分の精神が食い荒らされるのを防ぐべく、自死について考究しなければならない。というのも、みずからの語る観念の体系が人命の前では発言力を持たぬと承認するのでは、知識人は単なる臆病そして単なる卑怯の代弁者にすぎなくなるからだ。近代知識人がそういう価値からの逃亡を企てつづけてすでに久しい。そうした逃亡者になりたくないのなら、価値について語るものはすべて、死生観について一貫せる思想を組み立てざるをえない。死の不安・恐怖のうちで最大のものは、それまでの自分の生が無意味であったと思うニヒリズムにほかならないのである。
     もちろん、誰しも死んだ体験がないからには、死については語りえぬものが多々ありはする。しかし、そこで死について沈黙したままでいると、ニヒリズムに足をすくわれる。語りがたいことをあえて語ってみせるためには、自死の思想を探求しなければならない。死ぬ気にならなければ、死に向かって生きる気力が湧いてこない。
     そして自死について語っているうち、語りは何ほどかはつねにパブリックなものであるから、その言葉のパブリックな連関のなかに自分の生=死がおかれることになる。つまり、自分の言葉に公的な責任を持たなければならなくなり、そこでようやく人聞に死ぬ勇気が備わることになる。つまり価値についての公的な発言は、それへの有力な反証が挙がらないかぎり、みずからその実行を引き受けることを要請する。そうなのだと予定したときにはじめて、自分の生=死にインテグリティ (過不足のない筋道) が伴うことになり、それが死に甲斐および生き甲斐の根拠となるのである。
    ちなみに,この論の「ニヒリズム」の語の用い方は,当たっていない。


    引用文献
    • 西部邁 (2000) :「死生観が道徳を鍛える」
       西部邁[著], 富岡幸一郎[編著]『自死について』, アーツアンドクラフツ, 2018. pp.48-70.
       初出:西部邁『国民の道徳』「31 死生観が道徳を鍛える」, 扶桑社, 2000.