Up 進化論 作成: 2018-08-10
更新: 2018-08-10


    生物の<生きる>は,無意味である。
    一方,人間は<生きる>に意味を立てる。
    人間は,<生きる>に意味を立てないと生きられないように,己を進化させてきた。

    生物の<生きる>が無意味であることは,生物の<生きる>を観察するとわかることである。
    生物が生きるのは,生きるようにできているからである。
    この意味で,生物の<生きる>は<生かされている>である。

    実際,生物の<生きる>は,化学反応の系で物質が化学変化するようなものである。
    ひとは己の<生きる>に意味を立てるが,その<意味を立てる>こと自体, 既に「化学反応」である。


    生物の<生きる>を化学反応に見立てるとき,その「反応」を「適応」と呼ぶ。
    これは,「化学反応」のうちでも特に「自己維持する化学反応」である。

    「自己維持」には,「カラダの組織の新陳代謝」と「己そのものの新陳代謝──生殖により己のクローンをつくる」がある。
    生物は,この「自己維持」を成すように自己組織化する系である。


    生き物の生滅は,《積み木で建物をつくり,そして壊す》みたいなものである。
    積み木の数は限られていても,<つくって壊す>は無際限である。

    実際,生き物の生滅の「無数」は,想像できない「無数」である。
    一瞬の時にも,想像できない「無数」の生き物が生じまた滅している。


    さらに,この<つくって壊す>が,進化するわけである。
    生物の<生きる=生かされる>は,つねに進化している。

    ひとは,進化を何かに向かうプロセスにしようとする。
    実際これが,ひとが<生きる>に意味を立てるやり方である。
      ヘーゲルが歴史を<絶対理念>実現のプロセスに見立てるという具合。
    しかし,進化は,ただの偶然の積み重ねである。
    そして,何かの実現に向かうプロセスではない。


    偶然の累積のプロセスである「進化」は,ひとの理解のかなわないものである。

    生物進化学のテクストには,「系統樹」の絵が載っている。
    この絵はミスリーディングである。
    「系統樹」は現前の生物の先祖溯行を表現したものであり,ここには絶滅した種が描かれていない。
    実際,絶滅した種は無数にあったわけであるから,これの表現など思いもよらないことである。

    生き物の生滅の無数,種の生滅の無数は,最大級の「無数」である。
    人間が立てる<生きる>の意味の解体作業は,このクラスの「無数」に思いを致すことが第一歩である。