Up はじめに 作成: 2018-10-06
更新: 2018-10-06


    ひとは,事物に意味・価値・目的を立てる。
    この「立てる」は,「強いて立てる」であり,作為である。

    作為の理由は,この作為によって人の系の運動がつくられることである。
    系は運動する系であり,運動は<励起され続ける>を以て保たれる。
    そして励起となるもののうちに,<意味・価値・目的を新調する>がある。

    意味・価値・目的の新調は,作為である。
    <わざとする>である。
    そしてひとの<生きる>は,この<わざとする>で成っている。
    実際,このように<生きる>を仕立てることが,<生業う>である。


    しかし,ひとは,<わざとする>に自覚的であるわけではない。
    ひとは,自分たちの仮構に逆に騙されてしまう。
    仮構が<真実>になってしまい,これで自らを縛るようになる。

    著しくは,一つの<真実>に自分の一生を支配させてしまう。
    そして終局が破滅だったりする。
    これは,「一生を棒にふる」である。


    ひとをこのような迷いから覚ますことばがある。
    「幻想」である。
    単純なようだが,このことばを持っていると持っていないでは,ずいぶん違ってくる。
    幻想は,「幻想か?」の自問で,簡単に「幻想」と気づくものだからである。
    そして「科学」のことばを合わせ持てば,効果はさらに上がる。

    幻想で自分の一生を損なうのはつまらないし,その幻想を他に振りまいて被害者を増やしてしまうのはもっとまずい。
    肝要は,幻想を(わきま)えることである。
    ここで「弁える」の意味は,「機能・癖・危うさを理解する」である。
    本論考は,この「弁える」を講じてみようとする。