Up 「神は死んだ」 作成: 2018-12-22
更新: 2018-12-22


    「国破山河在」
    この句を愁嘆の表情で詠むのが,杜甫。
    しかし,この句を独り取り出せば,別の表情も思い浮かんでくる。
    感動の表情である。
    国という幻想が消えて,いま山河が見える自分がここにいる。
    「なんだ,これじゃんか!」

    「神は死んだ」
    神という幻想が消えて,いま生活が見える自分がここにいる。
    「なんだ,これじゃんか!」

    「彼はこの夕べ,なにごとによらず長くみっちり考えたり,思想を集中させたりすることが出来なかった。 いま彼は何ごとにもせよ,意識的に解決することが出来なかったに相違ない。 彼はただ感じたばかりである。 弁証の代わりに生活が到来したのだ。 従って意識の中にも,何か全く別なものが形成さるべきはずである。」
     『罪と罰』(米川正夫訳,新潮文庫,1951)


    幻想が消えた先は,虚無ではない。
    幻想が隠してきた(なま)が現れる。
    豊穣な相で,生が現れる。

    一方,これはインテリの独り相撲でもある。

    インテリとは,生に疎い者である。
    生と密な者は,インテリの独り相撲とは無縁である。 ──インテリの独り相撲に翻弄される存在でもあるが。


    人の文化人類学的進化は,「<アニミズム>から<交換価値>へ」である。
    <アニミズム>は,ひとが生と密なステージである。
    <交換価値>は,生が交換価値に記号化されるステージである。

    生と密な者は,生の多様な相に翻弄される。
    この多様な相に,気分・意図・思慮を感じる。
    この気分・意図・思慮の主体を立てる (これが「アニミズム」の意味)。
    神である。
    この場合,神は個々の事物に対して立てることになる。
    こうして,アニミズムの神は「八百万の神」である。

    <交換価値>のステージでは,ひとは拝金主義になる。
    しかし,金は記号であり,中身は空ろである。
    この空ろに,形而上学的に悩まされる者が現れる。
    インテリである。

    交換価値に空ろと人の煩悩を見て,解脱を考えるインテリが現れる。
    ブッダは,このタイプの一人である。
    交換価値にニヒリズムの影を見て,絶対真理を考えるインテリが現れる。
    キリストは,このタイプの一人である。

    解脱の教えは,救済の神を立てる宗教になる。
    絶対真理の教えは,絶対真理としての神を立てる宗教になる。
    これらの神は,<アニミズム>の神──「八百万の神」──に対するところの,<交換価値>の神である。


    宗教は,布教が実践課題になる。
    大衆を説教するわけだが,大衆はインテリの形而上学とは反りが合わない。
    実際,大衆とは生に密な者の謂いである。

    そこで,大衆のアニミズムを取り入れる方向に進む。
    反りの合わないところを,大衆の持ち前のアニミズムで埋めようというわけである。
    これは,宗教が呪術的に装飾されるということである。

    仏教だと,密教がこれの典型になる。
    キリスト教だと,エクソシズムである。

    大衆は,根っこのところは,アニミズムである。
    宗教に対する魅力は,呪術である。
    仏寺観光は,密教の仏寺になる。
    浄土真宗みたいのは,だめ。
    映画になるキリスト教は,エクソシズムである。
    これはカトリックである。新教はだめ。

    こうして,宗教は,教祖が斥けたところのものに自ら収まるようになる。
    これは,大衆宗教になろうとする宗教の宿命である。


    <交換価値>の神も,安泰ではない。
    科学の発展が,神を虚偽の存在にしていく。
    「神は死んだ」
    ここで死んだ神は,<交換価値>の神である。

    ニーチェは,「神は死んだ」のつぎがニヒリズムになることを警戒する。
    そこで,現世を説く:
      「神は要らないし,ニヒリズムになることもない。
       現世がちゃんとあるじゃないか!」

    しかし,ニーチェの危惧も,インテリの独り相撲のうちである。
    大衆はずっと現世主義である。
    ただ,国柄・土地柄として,現世主義の強弱がある。

    「日本型」を立てるとすれば,このあたりに関してである。
    「日本型」は,「八百万の神」が根強くて,これが<交換価値>の神に対する抵抗力になる。
    <交換価値>の神一色のようにはならない。
    よって,<交換価値>の神が死んでも,どうということはない。

    実際,科学は<交換価値>の神を死なすが,「八百万の神」に対してはこれを復権するように働く。
    復権された「八百万の神」は,「系の理」である。
    ひとは,複雑系の科学や生態学に「八百万の神」を見出し,これに感服する。


    もっとも,<交換価値>の神も,簡単に死ぬわけではない。
    科学を偽装して現れてくる。
    かくして,世の中は,<交換価値>の神と「八百万の神」のせめぎあいである。
    実際は,シンクロのダイナミクスが働くので,行ったり来たりの振り子運動を現すことになる。
    「国破山河在」は,繰り返されるのである。

    日本の学術は,生に疎いインテリの棲むところであるから,<交換価値>の神に傾倒するようになっている。
    欧米(もの)移入一辺倒になるのには,理由があるわけである。

    この欧米一辺倒は,学校教育に降りると,行ったり来たりの振り子運動を現す。
    教育現場は,生に密な者の棲むところだからである。
    <交換価値>の神と「八百万の神」のせめぎあい,そしてこれの均衡安定相としての振り子運動は,ここで起こる。
    文科省の約10年ごとの指導要領改訂,数学教育だと「数学的〇〇」の約20年ごとの新装はこれであり,一般に新規キャンペーンのライフサイクルがこれである。