Up 権力・自由 作成: 2018-09-21
更新: 2018-09-21


       西部邁『六○年安保』, pp.27-29.
     ブントが自己肯定したのは、権力との争闘をあけっぴろげになそうとする決意についてである。争闘といっても、機動隊との衝突にせよ左翼内部での党派抗争にせよ、まだ初歩の段階にあり、それゆえに、一種開かれた心で権力に向きあうことができたというだけのことなのであろう。しかしそうだとしても、権力の本体を民衆の眼前におびきだそうとする意志は、ブントの隅々にまで及んでいたようである。権力の所在を隠蔽しているのは戦後民主主義にほかならぬということをブントは直観していた。
     主権在民という虚構によってパワーやオーソリティのなんたるかが、またなんたるべきかが、いちじるしく不鮮明な環境のなかでブント世代は育ってきた。しかもアメリカという外国権力が表面に出てくるために、国内権力の本質は、国家のであれ旧左翼のであれ、ヴェールに隠されていた。権力と赤裸に対峠してみること、それがブントの欲望なのであった。そしてその欲望を解き放つために、ひとつに、すでにみたように「平和」の魔語にたいして「革命」の魔語を対置したのであるが、もうひとつには、「民主主義」の魔語にたいして「自由主義」の魔語をぶつけたのである。
     自由の意味するところについてきちんとした理解がなされていたというのではない。また「自由主義」という言葉が神聖視されていたのでもない。だがブントに自由の気分が汪溢していたのは確かである。多数決制にたいする軽侮の念は並大抵ではなかった。言論の自由がまず優先されたのであって、多数決制がそれを抑圧しようとする場合には、言論の自由は、暴力や策略の助けをかりてでも、自己を押し通そうとした。
     むろんそれはアナーキズムへの傾斜である。もっといえば放縦放埒への傾斜である。行動における過激主義を首尾よくなしとげるためにはなにほどかの秩序が必要になり、そのためにブントにおける無秩序への傾斜には自然と抑制が働きはした。しかしそれでも、自由としての生を危機としての生にまで深めることによって、つまりそうした生の密度によって、多数者の凡庸な生を撃とうとする意欲がブントの活力だったといえる。
     言論の自由は認識の自由にまですすもうとしていた。つまり、認識の世界における権力に唾する言動が目立っていた。いわゆる進歩的文化人がブントによって軽蔑されたのは、それら知識人が共産主義から隔たっていたからでもないし、過激な行動から離れていたからでもない。たとえ表面でそれらが軽蔑の理由に挙げられることがあったとしても、本当の理由は、彼ら進歩的文化人が民主主義を至上のものとする認識に与していたこと、それがブントの気に喰わなかったのである。
     ブントが進歩的文化人にとって代る認識をつくりだしていたというのではない。民主主義に代って自由主義の認識が考究されていたというのではない。ありていにいって、ブントにはまともな認識などなかったのである。人材もいなかったし余裕もなかった。要するに、馬鹿な若者の集まりにすぎなかったのだ。しかし、その馬鹿さ加減のうちに、開かれた認識へといたる可能性がいくばくか看取できたのである。
     マルクス主義も共産主義も糞くらえ、といってのける人間を少からずふくんでいたのが共産主義者同盟、つまりブントである。そんな自由な組織は、そもそも組織といえるほどのものではないのであって、空中分解して当然である。その分解のあと、ブント出自の人間のうちどれだけのものが、言論の自由そして認識の自由というものの真の魅力と真の怖さを知ったのか、私はつぶさには知らない。いずれにせよ、軽率かつ不遜に自由という名の禁断の木の実を食した人間たちにはそれ相応の報いが下っているのに違いない。