Up 西部邁『六○年安保』 作成: 2018-09-20
更新: 2018-09-20


    60年安保のブントとは,つぎのようなものであった:
       西部邁『六○年安保』, pp.23-26.
     いったいブントはなにを信じていたのか。ほとんどなにものをも信じていないという点で、ブントほど愚かしくも倣慢な組織は他に例がない。彼らにも理論や思想のかけらはあったし、それらを体系化しようという努力もなくはなかったのだが、要するに信じるに価するものを獲得していなかったのである。
     たとえば、新安保条約についていうと、それが日本の力が向上したことの印なのだとブントはわかっており、それならば、新条約を阻止することによって強化されようとしている日本帝国主義に、痛打を与えよというのがブントの構えであった。明断な理解であり明瞭な姿勢ではある。しかし、帝国主義とやらの現段階、それに代るべき体制、そこで生きる人間の生活など、要するにあらゆる根本問題についてブントは蒙昧であった。マルクス主義の文献から自分の情念に都合のょいところを抜き出してきて継ぎ合わせるのがブント流なのであった。
     彼らがかろうじて信じることができたのは、戦後思潮のなかに、つまり先にのべた様々の魔語 [引用者註 :「平和」「ヒューマニズム」「民主主義」「進歩主義」] によって操られる言語空間のなかに虚偽や欺踊が充満しているという感覚であった。その感覚にはたしかな経験の裏づけがあったのである。なぜといって、ブントはその言語空間のなかで育った人間たちを主要な構成員としていたのだからである。ということは、自己のうちにも虚偽や欺踊がふんだんにあると察知するということである。
     様々の魔語は戦前世代にとってはようやくにしてありついた恩恵だったのであろうが、戦後世代にとっては懐疑すべき、さらには打破すべき空語と映った。戦後思潮の虚妄を発くという否定性においてブントの情念は燃え上ったわけだが、その否定性がいずれ自分自身にたいしても向けられざるをえないであろうという予感がブントをとらえていた。 ブントにおける暴力への傾きは、あきらかに、戦後思潮にたいする、そしてそこで育ってきた自分自身にたいする、この否定性の気分に根ざしていたのである。暴力じみた過激な行動によって明るみに晒されたのは、反体制を標榜しながら体制に寄生しつつあった戦後思潮のカラクリであった。
     もし安保闘争の密度のことをいうのなら、ブントおよび全学連主流派の過激な行動がそれを与えたというべきである。過激派は、徒手空拳の未熟な暴力によって、体制および体制内反体制に衝突した。それによってつくりだされた不協和音は戦後思潮に巣喰う亀裂を端的に表象していたのである。彼らは「安保闘争の不幸な主役」とよばれたが、それは安保闘争を盛り上げた挙句に解体をとげたからではない。それは、安保闘争をささえた思潮のカラクリを、暴力という別種のカラクリによって解体させようとしたものたちの逃れがたい不幸である。こうした負の密度しか見出しがたいからこそ、それは致し方なく一種の馬鹿騒ぎなのである。
     ブントはこの馬鹿騒ぎの主役となるにあたって、「革命」という魔語に頼ろうとした。ブントにあって「革命」とは、純粋性とか徹底性とかを表す理念語であった。したがって、「革命」という言葉は異常ともいえるほどに真撃に発語されたのだが、ほとんど誰ひとりとして、その言葉が現実のものとなった状態を想起できなかったし、しようともしなかった。想起できない以上、それはユートピアですらなかったのである。
     ブントの過激さとは、二年近くの短い期間であったとはいえ、革命を幻想と知りつつ幻想してみた軽率さのことであり、そして軽率を一種の美徳とみなした腰の軽さのことである。つまりブントとは一個の滑稽にほかならない。しかし、本質的に浪漫的なるものとしての人間存在にとって、滑稽を免れることなどできる相談ではない。「革命」という魔語を喜劇の文脈において用いたところに、またそうすることができたというところに、ブントの面白さと倖せとがある。
     むろん、そのような浪漫のあとには虚無や退廃が踵を接してつながっていた。安保闘争の末期においてブントが全力をもって過激的たろうと悪戦していたのは、虚無や退廃をすすんで招じ入れつつそれらを拒けようとする複合感情が、加速的に高まったせいである。絶頂のあとに没落がくるであろうというのは、すでに実感にまで固まっていた。牧歌的な時代のこととて、死に場所などは見つかるはずもなかったのだが、左翼方面における過激的心性に死が近づいていることは明白であった。