Up アジテーター 作成: 2018-09-15
更新: 2018-09-15


    現前に疎外される者は,「こうであるべき」の幻想を紡ぐ。
    世の中は,この手の幻想に溢れている。

    ある者は,ある幻想が気に入って,あるいは「それはきっといいものだ」と当て込んで,その幻想にのめり込もうとする。
    さらに,のめり込むのが自分だけではもったいないと思う者は,その幻想を人に伝えようとする。
    後者の位相を,「アジテーター」と謂う。

     註: 幻想の内容を一応(わきま)えて伝えている場合,「伝導者」と謂う。
    本論考では,「一応弁えて」が程度問題になるので,「アジテーター」と,一つに括っておく。


    アジテーターは新人を勧誘し,つぎにこの新人がアジテーターになる。
    こうして,集団が形成される。
    この集団の位相を,「教団」とか「党」とか「派」と謂う。

    教団/党/派は,<スローガンを信じる>でつながる者の集団である:
    • 教団/党/派に入る者は,中身を知らずにスローガンにとびつく者である。
    • 教団/党/派の員にしても,スローガンの中身──信じるべき当のもの──を知らない。
      員は,「自分は<信じるべきもの>の習得過程にあるのだ」の思いで自足している者である。
    教団/党/派の実体は,スローガンとモラトリアムである。
    『禅とは何か── ダブルバインド型自己欺瞞の系力学』)


    教団/党/派は,「実践」を立てる。
    実践しなければ,スローガンとモラトリアムだけの者だからである

    実践する教団/党/派は,はた迷惑ないし危険な存在になる。
    実際,自分が信じているはずのものを知らない者が,「実践」をやり出すわけである。
    もの知らずが「実践」を己に課せばどうなるか?
    ばかなことをやり出すだけである。
    それは,破壊行動になる。
    こうして,教団/党/派の「実践」は,「迷惑行為」で終始する。


    ひとは「アジテーター」を過激な相でイメージするが,世の中に溢れている師弟関係の「師」こそ,アジテーターの典型である。
    実際「師弟関係」とは,改めて考えてみれば異常な関係である。
    先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」は,この異常を知る者の銘である。

    先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」は,「師をもつほどの馬鹿でなし」に転じる。
    このこと,よくよく吟味すべし。