Up 「思想」は正義を否定しようとするもの──「理性批判」 作成: 2023-12-27
更新: 2023-12-27


    ひとは,インチキな正義に縛られる。
    正義にうんざりする者もいるが,たいていは正義の側につく自分に満足する。
    さらに,正義に高揚し,正義の唱道・実践に血道を上げる者がいる。

    正義は,「理性」として現れる。
    ひとは「理性」におじけづくのがふつうである。
    ひとが「理性」におじけづく習性は,とりわけ学校がこれをつける。
    実際,学校の役割は<善い者>をアウトプットすることであり,そして<善い者>とは「理性」におじけづく者のことだからである。

    学校を出た者に対しては,マスコミが学校の役割を継ぐ。
    ひとは,マスコミが叫ぶ正義・理性に屈服する。
    人の世は,マスコミが正義・理性である。


    この人の世に対し「やってられねえや」となる者は,思想をやることになる。
    翻って,思想は正義を否定しようとするものである。
    思想する者は,「理性」を小馬鹿にできる者である。

    わかりやすい例が,「新型コロナ」。
    これが「パンデミック」とされることを素直に受け入れた者は,<善い者>である。
    思想する者だと,「ただの風邪じゃねえか」となる。

    こういうわけで,思想する者は<悪い者>である。
    実際,思想する者は,自由主義が貫徹されているところでなければ,無事では済まない。


    よくよく理解すべし。
    哲学がする「理性批判」は,「やってられねえや」が根底である。
    ひとは「理性」を「感情」の対義語のように使うが,哲学に出てくる「理性」は,ひとを縛っている<ものの考え方>を指す。

    キリスト教社会ではキリスト教が理性であり,共産主義社会では共産主義が理性であり,國體主義社会では國體主義が理性である。
    そこで,キリスト教社会,あるいは共産主義社会,あるいは國體主義社会に対し「やってられねえや」となる者は,「理性批判」という形で思想をつくることになる。