Up 国学の心理 作成: 2018-09-27
更新: 2018-11-05


    国学者は,<外国かぶれの時流に憤懣やるかたない者>である。
    彼らはインテリであり,そして外国かぶれのインテリが主流になっている世相に,がまんがならない。
    漢才(からざえ)」「さかしら心」の言い回しで,外国かぶれを批判する。

    さかしら心が主流になるのは,理のあることである。
    その理は,「悪貨は良貨を駆逐する」の理である。
    良貨を説けば悪貨が無くなる,とはならない。
    国学者には,この達観がない。

    達観の無い者は,悪貨をやっつける気持ちが強過ぎて,分を外してしまう。
    自分が実際に研究としてやっていることは,『万葉集』とか『源氏物語』とか『古事記』の読解である。
    しかし,これを「古の心」「古道」の探求と定めてしまうのである。
    なぜ,「古の心」「古道」となったのか。
    「漢才」に対立する形を求めたからである。


    ひとはだいたい大袈裟に考えて間違えるものであるが,国学者の間違いもこれである。
    「漢才」という捉えが,そもそも大袈裟である。
    大袈裟には大袈裟が対立する。
    その大袈裟が「古の心」「古道」である。


    国学は,『古事記』研究に進んで,『古事記』を真言とするようになる。
    『古事記』の中に出てくる神々を立てる。
    こうして,国学は宗教になる (「復古神道」)。

    『古事記』に順えば,日本は神の本国であり,天皇は神の系統である。
    こうして日本は「神国」であり,他の国とはぜんぜん格が違う。
    そこで国学は,
      <日本が皇国として立つことを願う者>
    の理論になる。
    実際,維新政権の根拠理論となった。


    国学が立てた「古の心」──「やまとたましひ」──は,いまや皇国の民の資質というものになる:
      「日本人には元来,「やまとたましひ」がある。  
       そしてこのことを以て,日本人は外国人とは別格である。」

    国学のこのくだりは,
      <外国かぶれの時流に憤懣やるかたない者>
    を誘惑するところである。

    この誘惑を断つものは,科学である。
    科学に即けば,「やまとたましひ」は,ナンセンスである。
    国学の「神」はフィクションである。