Up 「出家 pravrajya」とは 作成: 2021-10-11
更新: 2021-10-15


    出家は,「出家」の身になろうとしてする行為である。
    「出家」の身とは,「生死」の不思議の探求に専心する身のことである。
    「出家」の「家」は,「生死」の不思議の探求を邪魔する所である。
    「生死」の不思議の探求を邪魔する所が家なので,出家するのである。


    家は,「生死」の問いに蓋をする所である。
    「生死」の問いに蓋をするものの一つに法事があるが,実際家はとりわけ法事をせっせと務める所である。

    法事は,「死」を商売にしようとする者の発明である。
    「寺」はこの商いの会社形態であり,その社員が「僧」である。
    かれらは,永遠の居所として「あの世」を創作する。
    そして,あの世でよく居られるために現世ですべき行為を,「功徳」のことばで,ひとに諭す。
    この「功徳」は,寺・僧の収入源となるように,寺・僧が仕組むものである。
    そして実入りの最も大きいのが,法事というわけである。

    法事は,万事のうちの一事である。
    家は,この手のしきたりが詰まっている所である。
    だから,出家ということになるのである。


    寺の僧になることは,「出家」ではない。
    それは,ただの「就職」である。
    「出家」は,寺・僧の否定を含蓄する。
    それどころか,出家がいちばんに否定するものが,寺・僧なのである。
    上に述べたように,「死」の問いに蓋をして「生死」の不思議の探求を邪魔するものが,寺・僧だからである。

    ひとは「出家」を,「煩悩からの脱却を図ろうとする行為様式」と教えられている。
    そして「煩悩」を,「執著・我執」と教えられている。
    このように教えるのは,寺・僧である。
    寺・僧がこのように教えるのは,ひとが自分の財を寺・僧に回すようにするためである。

    出家を強いて「煩悩からの脱却を図ろうとする行為様式」と言うとすれば,その「煩悩」の意味は「コンプライアンス」である。
    ひとは信じてもいない規則・制度・価値に従わねばならない──しかも,これを絶対と定めて進んでこれを行っているようにパフォーマンスしなければならない。
    出家は,これから脱けようとするのである。


    出家してすることは,「生死」の不思議の探求である。
    探求の方法は,科学である。

    いまは,膨大な情報リソースが多様なメディア形態で手近にあり,探求活動がしやすくなっている
    昔は,情報リソースは「師」である。
    そこで,情報を求める者は,師を求めて彷徨することになる。
    「出家」に「彷徨」のイメージがついてまわるのは,このためである。


    出家してすることは, 瞑想や体を痛めつける苦行ではない。
    繰り返すが,探求の方法は科学である。
    瞑想・苦行など,何の意味もない。

    瞑想・苦行は,寺・僧が自分のビジネスのために用いる<騙し>である。
    彼らは, 「悟り」をゴール概念にする。
    その悟りを得る方法が瞑想・苦行だと教えるのである。
    悟りを得たかどうかは外から判別しようのないことなので,自分たちを悟った者ないし悟りに近い者のように見せかけて,「悟りって何だ?」レベルの一般人を騙せるわけである。


    ブッダも,<悟り>がゴールだと思って,瞑想・苦行から入った。
    そして,こんなのは無意味だとわかって,普通でよいとなる。
    「中道」の意味は,これである。
    そして普通の相で,探求する。

    ブッダの場合はもう情報リソースが存在しないので,自分の頭の中だけで考えることになる。
    これは外から見れば「瞑想」と映るが,<悟り>を想う瞑想とはまったくの別ものである。
    ブッダの「瞑想」は,理論構築の論理的作業である。
    <悟り>を想う瞑想は,ただの勘違いの妄動である。


    ところで,出家は簡単なことではない。
    人は,生きるために食わねばならない。
    食べ物をどう得るかが,先決問題になるのである。
    自給自足ができなければ,「乞食(こつじき)」である。
    この一点により,出家は憚られるものになる。

    しかしいまは,老後の出家に限ればだが,出家の敷居は低い。
    乞食(こつじき)」が成り立つからである。
    即ち,「年金」等の公的老後保障。