Up はじめに 作成: 2015-03-01
更新: 2015-03-06


    「人」の論は,「生物」を念頭においていないと,ひどく外してしまうことになる。
    「人」の論でひどく外してしまうことに警戒するとき,「生物」の探究に向かう。

    「生物」の探究は,存在論に反作用する。
    さて,目の前のコヒーカップだが‥‥」の類の存在論は,寝ぼけた論としていっぺんに吹き飛ばされる。

    どうしてか?
    「生物」の存在は,「新陳代謝」をメカニズムにする動的定常相である。
    そして,この「定常」も,一段上の「新陳代謝」に取り込まれるものとしてある。
    ここでは,「有って無い」「ウロボロス」が,アタリマエになる。
    これをパラドクスにするアタマの方がどうかしている」と返すことになる。

    特に,「生物」の存在論は,しぜんに「時間」の存在論になる。
    道元の「有時」,ハイデッガーの「存在と時間」の「時間」は,「生物」をやればアタリマエに主題になる。 ──「時間を考えない存在論なんてあるか」という話になる。

    存在論は,「有るは有る,無いは無い」がオーソドックスである。
    「時間」が出てこないのが,オーソドックスである。
    オーソドックスな存在論は,西洋哲学の実念論 (Realism) を系譜とする存在論である。
    この存在論は,最適な素材を間違ってきたことになる。
    存在論が間違ってきたとは,認識論も間違ってきたということである。

    かくて,本論考を以て,『思想としての「生物」』の論題を立てる。