Up | はじめに | 作成: 2014-01-02 更新: 2015-10-21 |
『資本論』がわかるとは,言っていることがわかるではない。 実際,『資本論』は,ひどくグチャグチャした物言いの論考である。 その文体は,今日,人の読めるものではない。 端的に,<ことば>の逸脱である。 どうしてこうなのかというと,歴史性 (「その時代には,到達点はそこまで」) として,論述の形式が未熟だからである。 そして,そもそも無理な枠組の論考になっているものもある。──価値論はこれである。 『資本論』がわかるとは,言っていることがわかるではなく,結局何をやっているかがわかるである。 『資本論』は厖大なテクストであるが,結局何をやっているかは,ごく小さなテクストで述べることができる。 本テクストは,これを示そうとするものである。 『資本論』を「結局何をやっているか」で捉える方法は,《『資本論』の物言いを構造にする》である。 このとき,『資本論』は一気にコンパクトになる。 併せて,『資本論』が設定する枠組の無理,論述形式の未熟も見えてくる。 以上のわたしの言い方から,定めし,読者は本テクストを『資本論』批判のテクストと受け取る。 そして,いまの時代に何で『資本論』批判なんだと,いぶかしがる。 本テクストの趣旨は,「批判」ではない。 実際,『資本論』は,商品経済を最初に,そして根柢的に,科学したものである。 近代の経済は商品経済であるから,科学としての経済学の形は商品経済学である。 『資本論』は,商品経済学である。 『資本論』は,商品経済学をとことん作り込んだものである。 商品経済は,「無くてよいものの生産・消費」が無限上昇スパイラルで回転する系である。 ──商品経済に棲むとは,これを強いられるということである。 無限上昇スパイラルは保てるものではなく,倒壊必定である。 ──これが「恐慌」である。 『資本論』は,恐慌論が商品経済学になっている。 ──「無くてよいものの生産」は,マルクスのことばでは「過剰生産」である。 一方,『資本論』は,価値論がに目立つ。 そこで,価値論が『資本論』のエッセンスのように見られてくる。 しかし,この見方は間違いである。 そして,そもそも,『資本論』の価値論は愚論である。 『資本論』の価値論は,価値を構成する。。 その手法は,「集合」ベースの構成主義の数学に似ている。 実際,その手法は,「集合」ベースの構成主義の数学に表せる。 この数学は,『資本論』ではまだ知られていない。 『資本論』の価値論は,グチャグチャの物言いになっている。 物言いがグチャグチャであるばかりでなく,価値論が示す価値の構成は,空論である。 本テクストは,『資本論』が行う価値の構成の解説に,紙幅の大部分をあてる。 解説は,価値の構成の仕方を数学に乗せるという形で行う。 「数学」といってもごくささいなものであるから,読者は逡巡するに及ばない。 「商集合/商構造」がこの場合の数学である。 そして本テクストは,この数学の知識を読者に要求しないところから始めていく。 |