Up | 理論批判作法 | 作成: 2014-01-09 更新: 2014-01-12 |
自身の科学的スタンスであるとしているものは,唯物論である。 そして,《唯物論の人への適用は,人を社会から説明するというものである》と進め,さらに《現前の社会を捉える科学はとりわけ経済学である》と進める。 そして,『資本論』となる。 本論考は,マルクス主義に「はた迷惑な思想」の典型/普遍型を見て,「はた迷惑な思想」の批判作法としてマルクス主義批判作法を示そうとするものである。 本論考においては,マルクス主義が標榜する「科学」は,「はた迷惑」との関係で見ていくことになる。 そして本論考は,マルクス主義批判の作法として,この見方を示そうとするわけである。 このとき,「批判作法」は「理論批判作法」である。 論の簡単のために,ここでは「理論批判作法」を「『資本論』批判作法」で考える。 先ず,用語の概念整理をする。 「科学」「理論」の意味である。 また,「科学」をいえば,これと紙一重のもののように「哲学」を出してくることになるので,加えて「哲学」の意味である。 先ず,「哲学」。 「科学哲学」の言い回しがある。 この場合「哲学」は,「科学」との同位対立ではなく,「科学」を俯瞰・形式探求する体(てい) で立つ。 要するに,「メタ論」である。 「俯瞰・形式探求」は,「哲学」の位相として一般的に言えそうである。 「○○哲学」即ち「○○の俯瞰・形式探求」,というわけである。 本論子は,この程度の意味で「哲学」のことばを用いていく。 つぎに,「科学」。 現前の「科学」,即ち「科学」を自称しているものを見るとき,「科学」は「自分の未だ知らないものを知ろうとする営み」である。 この「科学」には,「記述」物と「理論」物がある。 「記述」は,「見つけたものを書き留める」である。 「理論」は,「見えないものを理で捉える」である。 そこで,「理論」。 「理論」とは何か?──理論であるとないは,どこで区別される? この問題は,「見えないものを理で捉える」というときの「理」の規準 (criteria) は何か?の問題である。 例えば,ピタゴラスやアリストテレスの「万物は空気,火,水,土からなる」や五行思想の「万物は火,水,木,金,土からなる」は,「科学」のうちの「理論」物なのか,それとも「自然哲学」なのかは,「理」の規準がないと定まらない。 見えないものを捉えたと言うからには,「見えないものを理で捉える」の「理」は,やはりハードルの高いものでなければならない,となる。 いちばん条件をきつくしたものが,狭義の「理論」である。 即ち,言語,推論規則,公理を備え,「理論の展開」が「論理計算の展開」になるものである。 数学は,狭義「理論」の一つである。 「理論○○学」と称するものは,狭義「理論」である/でなければならない。 現実には,自分が「理」と思ったものが「理」である。 「理」は,主観である。 そしてこの場合は,みな「理論」になってしまう──自称「理論」。
そこで,「みな「理論」になってしまわないために」という程度の,「理」のハードルを考えることになる。 狭義の「理論」にしても,それがほんとうに「見えないものを捉える」なのか,あるいはアブストラクト・ナンセンスをやっているだけなのか,という問題がある。 そしてここに,「実証」が,「理」の要件として導入されてくるわけである。
以上,「哲学」「科学」「理論」の用語を,ひじょうに大雑把だが概念整理した。 さてそこで,『資本論』はどういうものということになるか? 『資本論』は,狭義の「理論」にはなっていない,自称「理論」である。 さらに,「現前と照らす」の形の「実証」が立たない,自称「理論」というふうになっている。 一般に,狭義「理論」にはなっていなくて,しかも「実証」が立たない自称「理論」は,「哲学」と区別のつかないものになる。 『資本論』は,自身を「経済理論」として立てるものであるが,結局「経済哲学」と区別がつかない。 ( 「マルクス経済学」) マルクス主義の「科学」は,「革命」が理論実験の形になる。 そしてこの実験により,理論は「反証」の形で実証されることになる。 しかしこの実験法は,「はた迷惑」なものとして厳に退けるところとなる。 翻って,マルクス主義に対する「理論批判作法」は,つぎを述べることである:
この実験は,はた迷惑である。 一方,マルクス主義は,「革命」を実験と思っていない。 自身の「科学」を,科学ではなく,<真理>にしているということである。》 |