Up | 思想批判作法 | 作成: 2013-12-30 更新: 2014-01-06 |
このとき肝心なことは,「思想」というものがわかっていることである。 思想は,似たり寄ったりである。 同じだといってもよい。 思想は,確信犯的に誇張を行う。 均しく目を配るみたいなことをしていたら,「思想」の形にはならないのである。 そこで,違いにこだわり,差別化にいっしょうけんめいになるのは,思想というものがわかっていないということである。 それは,《思想をわかることは自分を埋没させることになるので,差別化を自己目的化している》の体(てい) である。 「マルクス主義批判」を考えるときは,マルクス主義はこんな感じの体勢でつくられている思想だということを,先ず理解してやる必要がある。 マルクス主義は,若い思想であり,前のめりの思想であり,既存に対して無理矢理対立軸をつくろうとする思想である。 対立軸をつくることを以て自分のアイデンティティを保とうとするタイプの思想である。 マルクス主義には,ヘーゲル・フォイエルバッハ批判がある。 これを行うのは,自分がヘーゲル,フォイエルバッハと同じだからである。 同じなので,自分を立てるために差別化にいっしょうけんめいになる。 先に述べたように,思想は誇張である。 批判されるヘーゲル,フォイエルバッハにしてみれば,「あんたの考えるくらいのことは,とっくに考えているよ」になる。 それから,思想批判は,「思想は独善である」の構えで臨むこと。 思想を紡ぐ者は,その思想を「善い者」がつくる「善い思想」にしている。 「盗人にも三分の理」のことわざがあるが,「三分」などとんでもない,盗人は百パーセント自分を「善い者」にし,「善い思想」の実践として盗みを行うのである。 そこで,独善に対してダメ出しするような批判をつくる者は,相手に輪をかけた独善ということになる。 批判は,つぎのことをするものである: 批判は,論理計算を淡々とやるものである。 相手の思想を批判するのであって,相手を批判するのではない。 特に,相手を指しての「わかっていない」「勉強していない」の言い方は,することではない。 もっとも,批判を商売にしている者の場合は,売れる批判をつくらねばならないから,劇場的な「けんか」仕立てを選ぶふうになっても,それは認めてやる余地がある。 一方,そうでない者は,これを真似る必要はない。 「けがをするぞ」というのではなく (実際けがをすることがあるかも知れないが),「引っ込みがつかないふうに自分をしてしまうよ」ということである。 間違ったときにあっさり「間違った」と言える者は,強い者である。 弱い者は,引っ込みがつかないように思ってしまい,失敗の糊塗に腐心する者になる。 そして,たった1度の人生をずいぶん台無しにしてしまうのである。 ちなみに,今日のネット時代には,匿名で批判するやり方に惹かれるかも知れない。 そしてこの場合は,相手に対する「ばか」呼ばわりもできる。 すすめるわけではないが,「物言わぬは腹ふくるるわざ」のことわざもあるとおり,これは認めてあげたい。 そして最後に,「批判」は,簡明でなければならない。 ぐちゃぐちゃのことばを連ねたのは,思想ではない。 ぐちゃぐちゃのことばを連ねる者は,思想ができていない者であり,思想がわかっていない者である。 思想になっているかどうかは,人に対し簡明になっているかで試される。 自分は自分を偽るので,「人に対し」が肝心なところになるのである。 マルクス主義は,ぐちゃぐちゃのことばを連ねる。 これで,自分自身を騙してしまうことになる。 マルクス主義の親のヘーゲルの文体は,論理学がだいぶ整備されたいまの時代の眼でこれを見れば,ひどいものである。 そしてこれで自分を騙してしまう。 実際,この文体が紡いだ例えば歴史哲学だと,実際の歴史に適用したときにトンチンカンな論をつくることになる。 ヘーゲルの子のマルクスだと,『資本論』の「価値」論などは,「ぐちゃぐちゃの体で自分を騙してしまう」の好例である。 そして,このような文体が紡いだ理論を実践に適用すれば,トンチンカンな行動を起こすことになり,悲惨な状況をつくり出してしまうというわけである。 マルクス主義批判は,このぐちゃぐちゃの文体に付き合ってはならない。 「批判」は,「思想は簡明でなければならない」の意味で,簡明でなければならない。 |