Up 「市民社会」 作成: 2013-12-29
更新: 2014-01-04


    唯物論は,人が対象化しているものすべてを「物」から構成しよういう企てである。
    とりわけ,「観念的産物」を「物」から構成しようとする。
    この企ては,当然のことながら,成功しない。
    大工仕事で「心」をつくれないのと同じである。

    しかも,「唯物論」は,自分の守備領域をひどく小さく見積もってしまう。
    即ち,「社会での生活過程」にする。
    そして,「社会」はさらに「市民社会」に,そして「資本主義的生産様式の社会」に,見積もられる。
    こうして,「資本主義経済」の押さえが唯物論の企画の本丸と定められる。──実際,これが『資本論』の位置付けになる。

    マルクス主義は自分が「社会」を立てるとき,よくフォイエルバッハを引き合いに出す。 即ち,「フォイエルバッハは,唯物論だが,自然科学的だ──「社会」が抜け落ちている」と論じるのである。
    しかしこれは,かえって自分の首を絞めてしまうことになる。
    即ち,「自然」が「物」の次元なのであるから,「唯物論は,観念的産物を社会での生活過程から導かねばならない」とする者は,自らを
        <「社会での生活過程」を「自然」から導く者>
    にしなければならない。 そしてこのとき,自分はフォイエルバッハである。

     註 : わたしは,マルクス主義者と比べ,「社会」「経済」をはるかに小さく見積もる者である。
    マルクス主義者が例えば「生活過程 → 意識 → 言語」の枠組を立てるとき,わたしは「生きる → カラダ → 形式」の枠組を立てることになる。 ──ここで「生きる」の<場>は「生態系」であり,「社会」はこれの一部という位置付けになる。
    「学校数学=形式陶冶」の「形式」とは?