Up 「歴史」(「史的唯物論」) 作成: 2014-01-23
更新: 2014-01-23


    マルクス主義は,共産主義社会がゴールになる発達史観を立てる。
    さらに,これが科学に拠っていることを信ずる。
    その科学は,「唯物論」である。
    こうして,「科学のロジックが共産主義社会の到来を導くゆえに,共産主義社会の到来は歴史的必然」となる。

    マルクス主義が「科学」と見立てる歴史の力学は,「弁証法」である。
    マルクス主義は,ヘーゲルの「弁証法」を物質の運動法則に転じる (「唯物弁証法」)。

    マルクス主義の歴史観は,なぜこのようなのか?
    特定部分をひどく拡大視し,測度の感覚を著しく欠損させた,そんな思想だからである。
    特に,<自分>をとんでもなく大きなものに見てしまう。

    一般に,「実践的思想」と自ら称する思想は,すべてこうである。
    実際,マルクス主義は,実践的思想である。
    このとき,<自分>をとんでもなく大きなものに見てしまうから実践的になるのか? それとも,実践的であろうとすることと<自分>をとんでもなく大きなものに見ることは,同じなのか? ──後者である。

    史的唯物論は,小さくて歪んだ世界観で大言壮語を言う体(てい) である。
    この史的唯物論から実践論を紡ぐとき,「正義の改革」(「革命」) のはた迷惑行動になる。

    弁証法は,「メカニズム」の考え方である。
    「メカニズム」は,系が大きくなるほどに,使えなくなる。
    歴史は,そのような系である。
    歴史をメカニカルなものに定めようとするのは,思考の単純の証左である。

    実際,「メカニズム」は,「存在」を立てる思考回路 (「形而上学」) がつくるものである。
    一方,現実的な対象は,出現し変化しそして消滅するものである。 したがって,その間のどこに「存在」を立てようというのかというはなしになるのである。 (ハイデッガー『存在と時間』の「時間」の含蓄!)

    「歴史」の系は,思考するほどにどんどん拡がる。
    複雑思考は,「存在」という対象措定を保てないものにする。
    特に,「歴史」という対象措定を保てないものにする。

    マルクス主義が,「正義の改革」(「革命」) を立てるのは,単純系を立てる単純思考だからである。
    「正義」というものは,系を拡げると無くなる。
    翻って,「正義」は単純系思考回路が立てる。
    マルクス主義は,これである。

    実際,「社会」や「歴史」のことになると,マルクス主義は,「人為」しか目に入らない。
    「人」以外は,「図と地」の地になる。
    だから,「実践」について言ったりやり出したりすると,一事が万事ダメなのである。
    一事が万事どうしようもなくなるというわけである。