Up 破滅への道連れ 作成: 2013-12-29
更新: 2013-12-31


    わたしが「マルクス主義批判」をつくるとき,その理由は,マルクス主義が迷惑な思想だからである。

    例えば,スターリン粛正や,毛沢東文化大革命や,ポル・ポト民主カンプチアにおける大虐殺は,マルクス主義が導く行動様式の典型になるものである。
    そしてこれらに対し,わたしは殺られる側に自分を重ねる者である。
    そこで,わたしにとって,マルクス主義は迷惑な思想である。

    スターリン粛正や,毛沢東文化大革命や,ポル・ポト民主カンプチアにおける大虐殺は,「個人の資質」とか「マルクスの理論が曲げられてしまった」とか「行動の逸脱・変質」のはなしではない。
    これらは,「マルクスの理論」の論理的含蓄である。

    マルクス主義とは,現前の「諸個人の疎外」を「資本主義的生産様式の矛盾」と定め,そこで「諸個人の解放」を「矛盾の止揚」と重ねることになり,そして,「矛盾の止揚」として「共産主義的生産様式」を立てる,というものである。
    ところで,共産主義的生産様式は,諸個人による生産様式の管理,富の再配分であるから,共産主義的生産様式の実現には,「諸個人が管理できるところまで生産様式を縮小・単純化する」が含蓄されることになる。 実際,この「縮小・単純化」の実践を「革命」と称しているわけである。

    しかし,このようなことを考えたり言えたりするのは,「諸個人-対-資本主義的生産様式」の定立で考えているからである。
    「個と生態系」だったら,「矛盾の止揚」や「個の解放」「個による生態系の管理」を言いたくなるか? 「個が管理できるところまで生態系を縮小・単純化」(「革命」) を言いたくなるか?
    言いたくはならない。
    なぜなら,「個と生態系」だと,「個は,支配されていて同時に自由」があたりまえになるからである。 もし「個の解放」「個による生態系の管理」を唱えて「個が管理できるところまで生態系を縮小・単純化」(「革命」) をやれば,それが自殺行為 (「自分を生かしているものを殺すことで,自分を殺す」) だということが,容易にわかるからである。

    マルクス主義は,「個と系/場」の関係性に対し,「個が管理できるところまで系/場を縮小・単純化」(「革命」) を立て,これの実践に進もうとする思想である。 そして,これの実践では,殺られる者が多数出てくる。系/場の破壊で,破滅への道連れになる者が大量に出てくる。
    以上が,「マルクス主義は迷惑な思想」の構造である。